グランドジパング平安草子〜鎮魂篇〜 −四−
智弥 様
はっと目を開けると、ナミは薄暗い西対の中にいた。
(え・・・いつもの夢じゃない?これは・・・夢の続き、かしら)
ナミは急な展開に戸惑う。
燈台の灯火が、琴の前に座した女の影を作り、時折揺らめかせる。
女はひっそりと呟いた。
「・・・今宵が、約束の夜」
女の細い肩が、小刻みに震えだす。
「なのに、なぜ来てくださらないのですか・・・」
百夜通いましょうと、かの青年は誓いを立てた。
自分は落ちぶれたとはいえ宮家の血筋、豪族の娘であるあなたとは身分違いだとわかっております。それでも、もしこの心を受け取ってくださるならば、百夜目に、私の笛にあなたの琴の音を合わせてください。どうか―――。
「待って、おりましたのに・・・」
女の目から、涙がこぼれ落ちた。
最初は、信じられなかった。
自分はただの豪族の娘。両親はすでになく、乳母と僅かな家人に囲まれてひっそりと暮らしていた。
そんな自分に言い寄ってくるのは、両親の遺した財産目当ての身分がそれほど高くない者ばかり。それも、正妻が別にいたり、何人も愛人を囲っているような男がほとんどだった。
そんな中、かの青年は宮家の者とは思えないほど、遠慮がちに文を送ってよこしたのだ。そして、許しがもらえるまで、幾度となく通ってきた。
時折奏でられる笛の音は、彼の心そのままのように澄みわたり、彼女の胸を打った。
毎夜毎夜、ただ通ってきて、そして帰っていく。誠実に、ひたむきに、誓いどおりに。
そして、今夜が百夜目だった。
「私の琴に、笛を合わせてくださるのではなかったのですか」
最後の最後に、誓いを破って。
私の心を、もてあそんでいたのですか―――。
夜明け間近になって、近隣住民から情報を得られたゾロとチョッパーが帰ってきた。
夜が明け、ゾロが休暇中ということもあり遅めの朝餉を食べたゾロとナミは、そのまま近隣住民から聞き及んだことへと話が流れた。
ここで言うところの「近隣住民」とは人間のことではなく、自由気ままに暮らしている雑鬼たちのことを指す。人間には寿命があるうえに、記憶の底に埋もれて忘れ去られることも多いが、雑鬼たちは基本的に退屈しているので、少しでも面白いことがあると後々までしっかり覚えていることが多いからだ。
しかしなかなか見つけられず、さて、どうするかと、しばらく思案顔をしていたゾロは、ふと思いついて指笛を吹いてみた。
曰く、夜に口笛を吹くと、蛇もしくは妖やお化けが出る、というのを実践してみたのだ。
最初に現れたのは盲た蛇で、かいつまんだ事情を話すと、盲蛇は知らなかったらしく、別の妖を連れてきてくれた。
盲蛇に連れられて現れたのは、夜空の半月を斜めにしたような風体で、欠けた枠が変容した形の小さな顔がついていて、丸い目の中に小さな瞳があって、日本の細長い足が本体からにょっきりのびているという、欠けた鏡が意思を持った付喪神だった。盲蛇たちは「つくものおんじ」と呼んでいた。
盲蛇に語ったのとほぼ同じ内容を伝えると、付喪のおんじは記憶を手繰るように目を細め、語ってくれた。
話を要約すると、こうだ。
昔、宮家の血筋を汲む若者が、豪族の麗しい娘に思いを寄せた。若者は自分の誠意を示すために誓いを立てた。
「百夜、休まず通って笛を聴かせる」と。
横笛師でもあったから、雑鬼たちは笛宮の君と勝手に呼び、一方の娘は琴の名手で、常々素晴らしい音色を奏でていたから琴姫と呼んでいた。妖たちは人間の名前に興味はないが、呼び名がなければ不便だからと、適当に呼んで、それが定着した。いまも彼らの真の名は知らないという。
ところが、ついに訪れた約束の晩に、笛宮の君が不幸な事故に遭ってしまう。
たまたまその時に、仲間たちとふらふらと彷徨っていた付喪のおんじが、その現場に居合わせたという。
彼はその日、ある貴族の邸の月見の宴で楽を奏でることになっていた。役目がすんだら早々に退出しようとしていたが、酒を勧められてしまい、なんとかいなして邸を出た頃には、夜も更けていた。
今日中に琴姫の許に行かなければ、誓いを破ってしまうことになると、彼は焦燥していた。半ば駆け足で姫の邸へと急いでいた彼に悲劇が訪れた。
何某かの貴族を乗せた牛車の近くを、笛宮の君が急ぎ足で通り過ぎた時。
どこぞかの邸での宴からの帰りだったその貴族の牛飼い童がたいそう酔っ払っていて、牛をつなぐ軛の縄がゆるんでいた。 動物というのは気配に敏感で、たとえ離れていても、ただよってくる陽気な気配を察するものだ。
その宴の高揚した雰囲気に興奮していた牛は、ゆるんだ縄を振り切って暴走を始め、たまたま近くにいた笛宮の君を撥ねた。牛の角に引っかけられた彼は為す術もなく地に叩きつけられて、その時は一命を取り留めたものの、しばらく後に意識が戻らないまま死んでしまったのだ。
彼が琴姫の許に毎夜通っていたことは、誰も知らなかった。彼が訪れなかった本当の理由を知らずに、彼女はやがて流行り病で亡くなった。
ちなみに、と言って付喪のおんじがその鏡面に映してみせてくれた「笛宮の君」の姿は、夜、邸のそばにいたあの青年だった。
一通り話終えると、部屋の中には静寂がおとずれた。誰も、一言も話さない。
「・・・百夜目は、望月だったそうだ。そして奇しくも、今日は望月だ」
「それって・・・!」
ゾロの言葉に、ナミがはっとしたようにゾロを見る。
「この時期、望月の前後になると邸からは琴の音が聴こえ、笛宮の君が邸のそばに現れるそうだ」
ただそれを知っているのは、この近辺に棲息する妖たちだけなのだ。
「どうして私は、彼女の夢を見たのかしら?」
なんの力もない、ただの人である自分が。ナミはぽつりとこぼす。
「琴を弾いたことがきっかけであることは間違いねぇ。あとは歳が近かったからってのも、一因だな」
「それだけ・・・?」
ゾロの解釈に、ナミは納得していない感じだ。それ以外になにがある、と言わんばかりにゾロは腕を組んだ。
もうひとつの要因としては、おそらくナミの感受性だ。琴に込められた想いを無意識に感じとり、女に同調してしまったのだろう。
普段は強気でサンジやゾロをあごで使うところがあるナミだが、相手の気持ちを誰よりも深く理解し、相手の懊悩を解決しようと尽力するところがある。
ゾロはひとつ息を吐くと、おもむろに立ち上がる。
「こんな時にすまんが、ちょっと出てくる。夕餉までには帰れそうもねぇから、先に食っててくれ」
「え?どこかに行くの?」
「ああ、ちょっと必要なものを取りにな」
簀子に出て階でゾロが沓を履くのを、見送るために立ち上がったナミが後ろから眺める。もしこれで時間が明け方間近なら、傍から見ればその状況は朝帰りを見送る図になるのだが、二人はそれに気づかない。そして、わざわざそれを指摘して怒らせることもないと、隠形したままロビンはしれっと黙っていた。チョッパーはただ、仲がいいなぁと、にこにこと笑うだけだ。
「じゃ、行ってくる」
「うん、気をつけてね」
ナミに見送られながら、ゾロは出かけていった。
「ゾロ、どこ行くんだ?」
足元をちょこちょことついて来るチョッパーが、ゾロを見上げながら訊く。
「ああ、邸にいったん戻る」
付喪のおんじに聞いたところによると、笛宮の君は牛に撥ねられた折に、大切な横笛を失くしてしまったのだという。
誰かが持ち去ったのか、折れて捨てられたのかはわからないが、いずれにしても、笛宮の君が琴姫との誓いを果たすためには、笛が必要なのだ。
おんじによれば、青年は毎年この時期になると現れ、失った笛を探し、しかしどうしても発見することができず、あの邸の前で途方に暮れた様子でしばらくたたずんで、そうして消えていくのだとか。
「だから、まずは準備が必要かと思ってな」
なるほどと頷いて、チョッパーははたと気づく。
「でも、ゾロ」
「なんだ」
ちらと目を向けるゾロに、チョッパーはつぶらな瞳を向けてくる。
「笛を用意したとして、実際に吹くのはゾロだよね?」
「・・・それ以上言うな」
まったく悪気のないチョッパーの言葉に、ゾロは苦い顔をして唸った。
実体がなければ楽器は扱えない。自分の体を依り代として貸し与えるのに異存はないのだが、ひとつ問題がある。
ゾロは、音は出せる、に毛の生えた程度の腕前なのだ。簡単な曲でもともすると、指使いが怪しくなるのだ。
貴族の嗜みとして、元服した頃から式神の中でも雅楽に秀でているブルックに教わってはいたのだが、いっこうに上達せずに今に至っている。
ナミは西対の、琴の傍らに腰を下ろしていた。光と風を入れるために蔀戸を開けているので、澱んだ空気が入れ替わり清々しい空気に室内が洗われるようだ。
琴の反対側、陽射しの届かないところには、昨夜の女が端座しナミをじっと見つめていた。しかし、ナミに昨夜は見えたその女の姿は見えない。
だからナミは、こちらから問いかけることにした。何かしらの反応があることを期待して。
「私に、頼みたいことがあるんでしょう?」
女はこくりと頷く。
『・・・・・・を・・・』
琴を、自分の代わりに。
「爪弾けば、いいの?」
微かに耳朶に響いた女の声に、ナミは再度問いかける。
昨夜見た、夢の中。笛を吹いていた青年を、ゾロもまた見ていたといった。
悲しげにこの西対を見つめていたと、ゾロが言っていた。百夜通うと誓いながら、どうしてかそれを果たさずそれきり姿を見せなかった相手。しかし、果たそうとして、果たせなかったことをナミはすでに知っている。
夢で見た女は自分を責めていた。もっと早くに応えていればよかった。かの君が吹く笛の音に、自分の爪弾く琴を合わせて。それと同じように心を合わせていれば、これほどの裏切りに遭わずにすんでいたのかもしれないのに、と。
嘆いて、悲しんで、それでも青年を信じる心を、最期まで捨てられなかった。
『あなたの爪弾く琴の音に、私の笛を合わせましょう』
その言葉を打ち消すことが、どうしてもできなかった。
女は病ではかなくなって、琴に触れることはかなわない。ゾロやナミが捉えた絃の響きは、彼女の心に残った絶望の音色だったのだ。
そんな悲しい音を最後にするのは、ひどくやるせない。
『・・・・・・』
あの方が、もしもう一度現れたなら、私の代わりに琴を爪弾いて。私の心を、あの方に届けてほしい。
この心だけしか残せなかった、私の最後の願いを。
女の姿が、けぶるように消えていく。が、やはりナミにはその姿は見えないが、気配でそうとわかった。
ナミは、悲しい心の依った琴を、愁いを帯びた瞳で見つめた。
ずっと眠っていた彼女の心を呼び起こしたのは、自分だろう。だから、託された心に副うのはきっと、ほかの誰でもない自分の役目だ。
ゾロは珍しく烏帽子をかぶったまま邸を出た。その身にまとっているのも、夏に合わせて新調した直衣だった。
「ゾロ?なんで直衣?」
着替えていたゾロに代わり、唐櫃の奥に放り込んでいた横笛の包みを発掘していたチョッパーは、その手に笛を持ったまま目を丸くしている。
ゾロはチョッパーから横笛を受け取ると、ばつが悪そうに横笛で肩を叩いた。
「いや、まあ、こういう場合は、ちゃんとして行ったほうが、心情的にはいいんじゃないかと思ってな」
「うん、まぁ、それはそうなんだけど・・・」
それにしても、珍しい。普段から動き易さ重視の格好をするゾロが、あえて出仕以外で直衣を着ることがあるなんて。
ゾロの普段見慣れない姿に、ひたすらチョッパーは目を丸くしていた。
闇に染まりかかった都を、早足で移動し、別邸への道のりをたどって行くと、弱々しく肩を落とした青年の後ろ姿が現れた。
ゾロは笛の包みを小脇に抱えると、息を整えて拍手を打った。
青年が足を止め、初めて他者の存在に気づいたような顔で振り返る。焦りと絶望で憔悴した精悍な面差しは、彼の本質にある温和さをかろうじて残していた。
ゾロは印を組み、小さく神咒を唱えはじめた。
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(2010.06.08)