グランドジパング平安草子〜鎮魂篇〜 −五−
智弥 様
日が暮れると、ナミは燈台の灯りのみを頼りに、簀子の近くに移動させた琴に手を触れ、すうと深呼吸をした。
ゾロは、まだ戻らない。
いるかどうかわからなかったが、ゾロがどこに出かけていったのかをロビンへと問いかけてみた。それにロビンは姿は現さず、声だけで答えてくれた。
ロビンによると、ゾロは自邸に戻って、魂鎮めに必要なものを取ってくるらしい。
この別邸からゾロの邸まではかなりの距離がある。別邸があるこの辺りは都から離れていて、どちらかと言えば避暑のための別荘地のようなものだ。ゾロの邸が大内裏に近い左京の北側にあるとはいえ、こことの往復には半日以上を費やすのは間違いないだろう。それが徒歩ならばなおさらだ。
ゾロが出かけていったのは、昼になる少し前くらいだ。ならば戻るのは夜になるに違いない。ゾロに相談できないのならば、自分でやれるところまでやるしかないとナミは決心して、女房たちにしばらくは誰も立ち入らないようにと言い置いて、琴の傍に端座したのだった。
つい最近爪弾いたばかりだが、琴姫と呼ばれた彼女のように奏でられるだろうか。
胸元に手を当てて、衣の下にある匂い袋を握るようにする。
唇を引き結んで、ナミは心を鎮めながら、夢の中で聴いた曲を爪弾きだした。
震える音色が重なって麗しい旋律をつむぐ。自分が考えているよりも指の動きがぎこちないように思われて、ナミは必死になった。
彼女の後方に顕現し座していたロビンは、じっと音色に耳を傾けていた。
ブルックを除いて、彼ら式神は人間の楽器に触れることはあまりない。時折フランキーが琵琶を弾いていたりもするが、ロビンはさして興味もないため触ることはない。だが、美しい音楽は心に染み渡るものだ。
瞑目して音色に聞き入っていたロビンの耳が、草を踏む沓の音を捉えた。
薄目を開けて、気配を探る。しかし侵入者の正体を見極めると、ロビンは何事もなかったように目を閉じた。
やがて、琴の音色に合わせて、横笛の音が響いた。
ナミははっとした。琴に依っていた女の心が、歓喜に打ち震えるのが伝わってくる。
どこまでも響く笛の音色が、夜空に広がっていく。それまで聴いたこともないほどに美しい演奏だ。
最後の絃を弾くと、囚われていた女の心が戒めを解かれたようにして琴から離れたのがわかった。
同時に、闇の中で白い手が伸ばされるのが見えた。塀の向こうで悲しげに西対を見つめていた、ゾロが見たあの青年だ。
『お待ち申し上げておりました・・・』
それまでずっと悲嘆の涙にくれていた女の表情に、初めて笑みが宿る。それを受け、青年は泣き顔にも似た顔で笑った。
『はい、はい。・・・本当に、お待たせしてしまった』
青年に手を引かれて、女は一度だけナミを振り返った。かすかに目礼し、彼女の姿はぼんやりとした燐光に包まれ、消えていく。
笛の音が、途切れた。
それが合図だったのか、二人分の魂は、手の届かないところに旅立っていった。
しばらく闇を見つめていたナミは、立ち上がって簀子に出た。
烏帽子に直衣のゾロが、簀子に座って片膝を抱えている。天を仰いでいるゾロと同じように、隣のチョッパーも空を見上げていた。
チョッパーの反対側に腰を下ろして、ナミも彼らと同じように星影を追った。
「・・・どこに、行くのかしら」
「昔、師匠から聞いた話では、ずっと歩いていって、川を渡るんだとよ。船が出ているらしい」
それは、昔から伝えられている、死出の旅路の話だ。
「心残りがあると、川を渡らないでいるらしいな。そういう奴が、御魂祭のときとか、何かのきっかけでこっちに戻ってくる」
「・・・じゃあ、きっともう戻ってこないわね」
「ああ、多分な。・・・おまえの両親も、無事に川を渡ったんだろうよ」
「え・・・」
「最初の数年は戻ってきたかもしれんが、いまは残した娘の将来を憂える必要はなくなっただろうからな。シャンクスがおまえを可愛がってるのが、なによりの供養になってるさ」
さきほどの会話の一瞬の間に、「自分の両親はどうなんだろう」とナミが考えたことを悟ってのことか、はたまた偶然か、ゾロはナミが欲しかった言葉をいとも簡単に言ってのけた。
こういうとき、ルフィは直感で言ってくるし、それが的を射ていることを知っている。対してゾロは、経験から裏付けされた確かなことしか言わない。だから、信じられる。
「・・・ありがとう」
ナミは晴れやかに微笑んだ。
二人のやり取りを聞いていたチョッパーは、ロビンの『身体の一部をどこにでも花のように咲かせられる』能力で、そっと肩を叩かれて呼ばれ、そろそろと後ろに下がって、控えているロビンの許に移動した。
「どうしたんだ?」
「これ以上、じゃまをしてはだめよ。馬に蹴られたくはないでしょう?」
「俺、馴鹿なのにか?」
「そうよ」
ロビンの意味ありげな言い草に、チョッパーは小首を傾げる。それにロビンがくすりと笑う。
「なんで、一緒にいたらだめなんだ?」
「それは、野暮というものよ」
「野暮?」
「そう、野暮」
式神たちがひそやかにそんな会話を交わしているなどとは露知らず、ゾロとナミは他愛ない話を続けていた。
ゾロが手にしている笛に目を留めて、ふとナミは首を傾げた。
「吹いてたのってゾロだったの?」
「いや、俺に依り憑いていた笛宮の君だ。横笛師なだけあって、腕はたしかだな」
比べるつもりはないが、逆立ちしても敵わない。つくづく自分には、雅やかなものは向いていないとわかった。
ナミは目をしばたたかせて、なにやら思いついた意地の悪そうな顔をした。
「そうだ。ゾロ、吹いてみせてよ」
「あぁっ!?」
濁音つきで呻いてがばりと振り向くと、ナミはいたずらっぽく、でもとても楽しげに両手を合わせていた。
「聴いてみたいのよ。あんたが笛を吹く姿なんて珍しいし」
「おまえなぁ・・・」
さっきのあの完璧な楽のあとに、未熟極まりない腕前を披露しろというのか。しかもナミの意図はわかりすぎるほどわかっている。絶対あとで笑い者にする気だ。
ナミは挑発的に目を輝かせている。これはもう、あとに引くわけにはいかない。
軽くナミを睨んで、ゾロは渋々笛を構えた。
視界のすみで、幾つもの影が主屋の簀子にわらわらと現れる。そういえば、なんだかんだで約束した邸をまだ用意していなかった。まだかまだかと責め立てられることが想像に難くないから、近々用意しなければ。わかっている、したくもないが、これは完全な現実逃避だ。
響き出した笛の音を聴いたチョッパーは黒いつぶらな瞳を、ロビンは藍色の瞳を丸くした。
「あれぇ・・・?」
「あら?これは、また」
音が出せる程度の腕前でしかなかったはずなのに、充分聴くに堪えるものになっている。
吹いている当人も内心で驚いているようで、指使いを間違えないよう気を配りながら、目だけを天に向けた。
これは、もしかしなくても、笛宮の君の置き土産だろうか。
ちらりとナミに目をやると、少しくやしそうな顔をしながらも、彼女は目を閉じて音色に聞き入っているようだ。
(・・・まぁ、いいか)
ありがたく受け取っておくことにして、ゾロは笛を吹く。
二十年にも及んだうつつの夢に思いを馳せ、手向けの音色が夜空にとけた。
休日が明けた翌日、内裏を退出したゾロはその足でシャンクス邸を訪れ、シャンクスにナミが見ていた夢のことと別邸について、無事解決したことを報告した。
そのあとナミ付きの女房に呼ばれ、ゾロがナミの許を訪れると、ナミがなにやらゾロに差し出してくる。
ゾロが受け取って見ると、若竹色の小さな袋だった。
「これは?」
「うん、先日のお礼。報酬はおじさまからいただいただろうけど、それは私からね。匂い袋なの」
「ああ。どうりで小せぇと思った」
「伽羅のほかにも、いくつか混ぜてあるのよ」
「そうなのか?たしかに、悪くはない匂いだが」
ナミの説明を聞いても、ゾロにはよくわかっていないようだった。
「まあ、ありがたくもらっとく」
「うん、そうして」
香に関してまったく興味のないゾロだったが、とりあえずナミに礼をのべた。ナミも笑顔で頷くが、なぜか手を差しだしてくる。
訝しげに見やるゾロに、ナミは笑顔のまま告げた。
「お礼はお香の分だけで、袋は入ってないの」
「・・・だから、どうしろと」
「ん。だから、何か手間賃をちょうだい。大変だったのよ、それ作るの。首にかけられるように麻紐をつけたりとかね」
そう、実際大変だったのだ。変に甘くならないように気をつけて、ゾロが持つ雰囲気に合うようにと、上品な伽羅とほかにも沈香などを調合した、ナミだけが作れる世界でこれだけの特別な香を考えたり、慣れない手つきで袋を縫って手を針で刺したりと、本当に大変だったのだ。
そうとは知らないゾロは、理不尽とも思えるナミの言い分に、ぶつくさ言いながらも懐や袂をまさぐった。
「ったく、少しは素直に礼を言えねぇもんかねぇ・・・」
袂を探っていた指先が、何か固いものに触れた感触が伝わった。それを取り出し、ゾロは片眉をかすかに上げた。
「・・・これで我慢しろ」
なかば放り出すようにしてナミにそれを渡す。慌てて受け取ったナミは、手に納まったものを見て驚いた。
「ゾロ!これっ・・・」
「あまり良いもんでもないし、使い古しで悪いが、やるよ。今の俺にはもう必要ないからな」
それは、丸く磨かれた瑪瑙だった。小さくて、橙に近い薄い紅にところどころ白い縞が走っている。ゾロの言葉どおり、それほど上質ではないのだが、その割には輝きがどこか違っている。
直径三分ほどの小さな丸玉の中央をくり貫いて、左右に飾りの管玉がひとつずつ連なっている。穴に通された革紐の長さは一尺にも満たない。手首か足首につける装飾品なのだろうと思われた。
「大事なものなんじゃないの」
「まあ、大事っちゃあ大事だが。餓鬼の頃に、瑪瑙は魔除けになるからって持たされたもんだしな」
「・・・お守りってことよね」
「そんな大層なもんじゃねぇよ。・・・あぁ、だが、今ならそんくらいのご利益はあるかもな」
瑪瑙は、自分にとって悪いものを払い除ける霊力を持つひもろぎの石、真心を込めて祈れば、悪いものを払い除ける力を発揮する、といわれている故に魔除けの石とされる。
コウシロウに引き取られた際に与えられたものだったが、元服した時点でそれは役目を終え、いまはただの瑪瑙の飾りになっている。持ち歩いていたのは、ただ単に幼い頃からの習慣で、そういう癖がついてしまっていただけだった。
ただ瑪瑙の霊性に加え、霊力の高いゾロが幼い頃より持ち続けていたため、ほかの瑪瑙よりもその霊性ははるかに高くなっている。ナミが持てば、神仏の加護を得た札などと同じで、充分立派なお守りとなる。
大事なものを渡されるとは思っていなかったナミは、どうしようかと途方に暮れた。
本当は、何も持っていないはずのゾロがそう言ってきたら、ならば代わりにと、笛を吹いてもらうための口実だったのだ。
先日聞いたゾロの笛の音色は、雅やかさはまったくないけれど、無骨で実直で、ゾロの人柄そのままの音だった。それ以来その音色は、ひそやかにナミのお気に入りになった。
でも、ゾロは自分から笛を吹くような性格はしていない。だから、何かしらの条件を押しつけて吹かせようと思っていたのだが、ゾロはナミの予想の斜め上をいくことをしてくれてしまった。
「なんだ、いらねぇのか?自分から言い出しておいて」
怪訝そうにしてゾロが話しかける。それと同時に、瑪瑙の飾りに手が伸びてきて、ナミは慌ててそれを握りしめた。
「う、ううん!いる!ちょっ、ちょっと驚いただけよ。あんたが顔に似合わないもの持ってるから」
「一言余計なんだよ、おまえはよ」
眉間にしわを寄せるゾロに、ナミは笑って言った。
「ありがとう、大切にするわね」
「おう。・・・これ、大事にしておく」
照れているのか、ゾロがぶっきらぼうに呟いた。
その言葉どおり、彼は生涯この香を使用しつづけることになる。
FIN
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(2010.06.08)