グランドジパング平安草子〜慈雨篇〜  −十−
            

智弥 様




 ゾロから事のあらましを説明されたチョッパーは、すぐさま獣型に変化し、ゾロをその背に乗せて走り出した。
 荒れた邸から出発し、さらに京の街を抜け出たチョッパーは、ひと一人乗せているとは思えない速さで、飛ぶように疾走している。その傍らには、同じ速さで走るロビンの姿もあった。
「本当にキブネで間違いないのかっ」
「ああ、間違いねぇ!サンジもそこにいるはずだ!」
「だとすれば、隠れ潜むのにあれほど格好の場所はないわね」
 ともすれば、互いの声さえも流されてしまうほどの速度の中で、三人は声を張り上げなから会話する。しかも、ただひとり人間のゾロは振り落とされないようにチョッパーにしがみつき、呼吸もままならない状態になりながらの会話である。
「盲点だったな」
 ゾロが忌ま忌ましげに呟く。
 あの荒れた邸で対峙した妖は、かなりの妖力をもっていた。あの妖が神隠しの元凶であるにもかかわらず、どういうわけか、陰陽寮の陰陽博士たちは、それに気づいていない。
 あれほどの妖力を放つ化け物がいながら、だれもそれを悟れない場所。絶対にそんなことはありえないと、誰もが最初に選択肢の中から除外するであろう、地。神代の昔に木船で神が降臨した、都の北に座する霊峰。
 その霊力は甚大で、山々を覆いつくす聖なる結界は、裏をかえせば、結界の内にあるものすべてを隠し通すということ。結界内に入らなければ、決して感じとることはできないだろう。しかも濃密な霊気に覆われて、陰陽師たちの式占も捻じ曲げられてしまう。だから、式占を行っても、平穏無事とあらわれてしまうのだ。
 そのうえ、そこは宮司と禰宜がわずかにいるだけの、人里離れた場所だ。
「でも、そんな奴がいたら、宮司や禰宜が宮中に報せにくるんじゃないかっ?」
 神祇官はそういった報告は受けていない。とりもなおさず、それは異常事態などおきてはいないということに他ならない。だが。
「操られているか、とり憑かれた可能性もあるっ」
「ああ、そうか!」
 ゾロが示した事柄に、チョッパーが納得したように頷いた。
 ゾロを乗せたチョッパーとロビンは一足飛びに駆け、川の側に鎮座している大きな岩の手前までくると、いったん足を止めた。
 水の音が絶え間なく響き、ほのかな白い光が点在して浮遊している。
「ありがとな、チョッパー」
 チョッパーの背から降りたゾロは礼を言って、頭を撫でてやった。半刻もかからずにここまで来れたのは、チョッパーのおかげだ。
 ゾロは前方を見据えた。岩のあたりから先には、キブネを護る結界がある。
 さきほどからゾロは、圧迫されるほどの凄まじい霊力を感じている。これが、キブネを護る霊気の壁だ。外側から見れば、その力は純粋で清冽で、キブネに秘められた通力を誇示しているようにしかみえない。
 ゾロは意識して呼吸を整えると、唇を引き結んだ。
 螢の乱舞する巨大な岩の横を通り過ぎ、ゾロとロビン、獣型から人獣型に戻ったチョッパーは結界内に足を踏み入れた。
 霊気の壁を通り過ぎたその瞬間に、異変はおこった。
「なっ・・・!?」
 ゾロは息を呑んだ。
 馬鹿な、こんな場所ではなかった。皆で螢を見にきたときは、もっと澄んだ風と大気に覆われた聖なる領域だった。
 驚きで立ち止まったゾロに、重苦しいねっとりとした空気がまとわりついてくる。壁のあちらでは螢が飛んでいるというのに、こちら側には一匹もいない。
「これは、いったい・・・」
 ロビンもチョッパーも、あまりの変わりように戸惑っていた。
 ―――あなたを引き渡せば、願いを叶えてくれると・・・
 悲愴な表情でそう言った桜の木霊。
「ま、さか・・・」
 あの妖は、ヨウカの心に付け入り、この霊峰を穢すための捨て石にしたのか。闇の眷属である妖異が潜むには、この山はあまりにも清冽すぎたから。
「急ぐぞ!」
 ヨウカに何かがあれば、共にいるだろうサンジが危ない。そのひとつの可能性に辿りつき、ゾロは闇に続く山道を走り出した。


 ひたすらに山道を進んでいたゾロは、闇の中に浮かぶ灯火を見つけた。
「・・・あれは」
「キブネの社務所じゃないのか」
 ゾロが目を凝らしていると、隣を走っていたチョッパーが答える。灯火のすぐそばに、小さな建築物があるのがわかった。
 社務所のまわりに配された石灯篭に火が燈されているのだ。
 ゾロは、キブネにも宮司と禰宜がいるのだから当然かと思い当たるが、すぐに不信感が首をもたげてきた。
 火が燈されているのに、社務所からは人の気配が、いっさいしていないように感じたからだ。
 ゾロの胸中に、何ともいえない冷たい塊が生まれた。
 仮にも神職を預かる者が、このキブネの異変を感じていないのだろうか。霊峰の聖なる結界の内に澱む、この異様な重苦しい妖気を。
 ゾロは緊張した面持ちで、社務所に続く道を駆け上がる。
 社務所は奇妙に静かだった。ゾロの胸の中の氷の塊が滑り降りた。
 ゾロは立ち止まると、ロビンに社務所内を調べるように頼んだ。
「ゾロ、どうしたんだ?」
「少し、気になるんだよ」
「え・・・。で、でも、キブネの宮司さんたちがいるんじゃ」
「非礼はあとで詫びる。何もなければ、それでいい」
 そのときロビンが、訝しげに呟いた。
「おかしいわ。人のいた気配がまったくない」
「本当か?」
 ゾロは、ちっと舌打ちをした。
「まって、何かあるわ。これは、まさか・・・!」
 動揺したようなロビンの声に、ゾロは自分の予感が当たったことを知る。
「なにが、あった?」
「おそらく、宮司と禰宜と思わしき人の表皮だけが残されているわ」
「俺たちが来たことを察して、中に入ってた奴らが皮を脱ぎ捨てて、あの妖に報告にでもいったか」
「まさか・・・二人とももう・・・!」
 チョッパーが戦慄いた。
 誰も気づかない間に、禰宜と宮司はいつの間にかあの妖の配下と思しき妖異に殺され、成り代わられていたのだろう。これではどれほどキブネで異変がおころうと、報せが来るわけがない。そのうえ、通常よほどのことがなければ、キブネに使者が赴くことはない。もし貴族などが訪れても、素知らぬ顔でそれを迎えていれば、誰も気づきはしない。
 ふた月あまり、雨が降っていない。そのときからずっと、タカオカミノ神が呪縛をうけて封じられてしまっていたのだとしたら。
 ゾロは忌ま忌ましげに呟いた。
「いったいいつから、あの妖はこの国に入り込んでいたんだ・・・!」
 宮司たちのように殺されて、成り代わられた者が他にもいないと言い切れるだろうか。
 キブネ全体を、暗黒の瘴気が覆い尽くしている。聖なる結界の皮をかぶって、恐ろしい妖異たちが蠢いている。見てくれに騙されて、そのことに誰ひとり気づきはしなかった。
 いまとなっては、かけらも感じられない霊峰の神気。
 ゾロはキブネ山を見上げて、深く息を吐いた。
「丁重に弔ってやりたいが、いまは時間がおしい。とにかく、先に進むぞ」
 そう言って、ゾロは駆け出した。そのすぐあとを、チョッパーとロビンが追っていく。
 ざわざわと、むせるほどの濃密な瘴気が漂っている。
 傾斜を駆け上がっていたゾロは、杉林のなかに蠢く化け物たちの群れを発見した。
『来たぞ、方士だ!』
「方士・・・?」
 眉根をよせるゾロに、前に出たロビンが答える。
「大陸にある国の術者のことよ。かの国では、陰陽の術と似たものを方術とよぶの」
 つまり、この先へ行くには、この化け物たちをすべて相手にしなければならない、というわけだ。
「ゾロ、ここは俺とロビンがやるよ。ゾロはサンジのところに行って」
 チョッパーは言い終わると、人型をとる。人型のチョッパーはゾロよりも、背も身幅もさらに大きくなり、剛腕を誇る。
「わかった。頼んだぜ、チョッパー、ロビン」
 深く頷いて、ゾロは呼吸を計る。
 ロビンが胸の前で腕を交差させる。妖異たちの体に腕が咲き乱れ、次々に関節技を決めていく。囲みの一部が切り開かれ、ゾロはその突破口を駆け抜けた。
『行かせるか!』
 伸びてきた爪を、ゾロは視界の隅で捕らえる。
「払除!」
 ゾロを取り囲もうとしていた化け物たちが、いっせいに弾き飛ばされた。転げ回る異形たちに、チョッパーの拳が襲いかかる。
「―――さて」
 ゾロが無事に包囲網を抜け出たのを確認したロビンは、妖異たちを見据え、凄絶に笑った。
「あの子を、このまま一人で行かせるわけにはいかないの」
「すぐに、片をつけさせてもらう」
 不遜な言葉をうけて、化け物たちは色めきたった。


 サンジは、鬱蒼とした山林の中に建てられた小さな社の前にいた。ヨウカは、すぐ横の桜の古木に手を当てて佇んでいた。
 離れた場所から、さらさらと流れる水音が響いてくる。聞こえるものはそれと、木々の間をすり抜けていく風の音のみだった。
「今宵で、きっと、すべてが終わる」
 思えばあの時から、それを望んでいたのかもしれない。自分が過ちを犯した、あの日からずっと。
 ヨウカはちらっと、社の前にいるサンジを見る。
 こうして、サンジと一緒にいたいという、自分の願いは叶った。あとひとつの願いは、もう叶いそうもないけれど、今となっては叶えたいとは思わない。
 すべては、自分の身勝手なその願いが、発端だったのだから。
 ヨウカは、自分の本性である、桜の古木を見上げる。
 昔はたくさんの華を咲かせていたこの木も、いまでは、ちらほらとまばらに咲かせるだけとなってしまった。
 それでも、この山に坐す二柱の神は、桜の時期になると必ずこの木を訪れては、楽しげに眺めていかれるのだ。私はそれが誇りだった。
 それでも、年月を経るごとに、力を失っていくのがわかった。「私」という存在を生み出すほどの長い時を、この木は生きてきたのだから、当然といえば当然なのだ。
 だから、おそらく花が咲くのは今年で最後だろうと、そう告げたときの神たちの悲嘆ぶりに、胸が引き裂かれるかと思ったくらいだ。
 一度は、二神の眷属として迎え入れよう、という過分な申し出もあった。私はそれを丁重に断り、ただの桜として散ることを決めた、はずだった。
 それを一変させたのが、彼の放ったひと言だった。
 みすぼらしい花しか咲かせられない桜など、誰も見向きもしなかった。私も、それでいいと思っていた。
 なのに、彼だけは、「私」を見て、感嘆の声をあげてくれた。古木でありながらも、まだ花を咲かせている私を、手放しで賞賛してくれた。
 本当に、嬉しかった―――。
 そのうえ彼は、私のような存在には宝ともいえる「もの」をくれた。
 そのときから私には、ある願いが生まれた。
『来年、また彼に、私を見てほしい』
 そのためには、力がいる。
 だから私は、人間の精気を吸い取るという行為に出た。そして、吸い取った精気を、本性である桜に流し込み続け、力を徐々に蓄えていった。
 人間一人からいただく精気は、数日寝込めば回復する程度に留めていた。
 しかし、それを沙妖に利用されてしまった。
 意識を失った人間を、沙妖は私の与り知らないところで喰らっていたのだ。
 そうとも知らずに私は、甘言をもって近づいてきた妖に、頷いてしまったのだ。
『俺ならば、お前の願いを叶えてやれる。人間にも、その姿が見えるようにしてやろう』
 だから、これまでのように、人間どもから精気を奪い続けろ、と―――。
 いま思えば、どうして、妖の言葉になど頷いてしまったのだろう。いくら、彼の親しい者たちには手を出さないと、約束していたとしても。承諾するなど、あってはならないことだったのに。
 その私の愚かな選択故に、かの竜神の一柱は、重くのしかかる呪縛によって、深い、深い闇の奥に、封じられてしまった。
 日々、深い後悔に苛まれていた。それでも、沙妖との力の差は歴然としていて、逆らうことすらできなかった。
 そんな中に差し込んできた一条の光。
 彼の友人の陰陽師。
 まっすぐな瞳をした彼ならば、きっと、すべてを終わらせてくれるはず。
 私は彼に向き直った。自分の罪を告白するために。
「サンジ様、私の話を聞いていただけますか」




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(2010.11.02)



 

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