グランドジパング平安草子〜慈雨篇〜 −九−
智弥 様
サンジは辺りを見回した。
さきほどまではあの荒廃した邸にいたのに、ヨウカの後を無我夢中で追いかけていたらいつの間にか、山の中まで来てしまっていた。しかし、そんなに長い距離や時間を走った感覚はない。
これはいったいどうしたことか、とサンジが首を傾げていると、目の前にある一本の桜の木の脇にヨウカがこちらに背を向けて佇んでいるのに気づく。
サンジは相好を崩して、ヨウカへと声をかけた。
「ヨウカちゃん。よかった、追いつけた。見失ったかと思ったよ」
しかし、ヨウカはサンジを見ようとしない。
「ヨウカちゃん?」
「どうして・・・。なぜ、追いかけてきたのですか、サンジ様」
「え、どうしてって言われても。・・・え〜と、とりあえずさ。こっち、向いてくれないかな?」
ヨウカはそれに首を振ると、頑なにサンジに対して背を向ける。細い肩が震えているのが、サンジには見てとれた。
そんなヨウカにそれ以上無理強いすることもなく、サンジはとりあえず、ヨウカの疑問に答えることにした。
「俺が君を追いかけたのは、そうしなきゃいけないと思ったからだよ」
「ですが、私は・・・!」
「あぁ、うん、あれはちょっと驚いたかな。でも大丈夫だよ。あれくらいであいつは怒らないから」
「そうではなく、私は・・・!」
どこか外れたサンジの言葉に、ヨウカは焦れたようにサンジを顧みて、息を呑んだ。
「ああ、ようやくこっちを見てくれた」
ヨウカを迎えたのは、サンジの愛おしむような眼差しと優しい笑みだった。
ヨウカはいたたまれないようにすぐに視線をそらすが、さきほどのように背を向けることはなかった。
「なぜ・・・。なぜ、まだ、私にそんな顔を見せられるのですか」
「ん?」
「私は・・・、あなたを騙していたのに・・・」
ヨウカは泣き出す寸前のような顔になる。
サンジはばつが悪そうに頬を掻く。
「べつに、俺は騙されてはいないよ」
「・・・え?」
ヨウカは何を言っているのかわからない、といった表情でサンジを見る。サンジは苦笑して言った。
「だって、わかってたからね。ヨウカちゃんが人じゃないってことは」
「な、にを、言って・・・」
「あいつと知り合ってからというもの、人外のものと接する機会が増えてさ。おかげで、ある程度はそういうのがわかるようになったみたいなんだ」
だから、わかってたよ。
そう言ってサンジは笑う。ヨウカは驚きで目を瞠ると、両手で口元を覆い、顔を歪めながら震える声で問い質した。
「どうして・・・、言ってくださらなかったのですか。そうすれば、私は・・・」
サンジは困ったように笑って言った。
「それを言ったらさ、俺の前から消えちゃうと思ったんだ、君が。ほら、昔からそういう話があるじゃない」
古今東西、正体を見破られた妖や異形は、愛しい人の前から姿をくらますのが常だ。ならば、ヨウカもそうならないとも限らない。だからサンジは口を噤んでいた。
「ずっと、ヨウカちゃんと一緒にいたいから。だから、黙ってたんだ。それで君を傷つけたんだとしたら謝るよ」
話を聞いているうちに俯いてしまったヨウカに驚かさないようにそっと近づくと、サンジは細い肩に手を置き、顔を上げさせる。
「ヨウカちゃんが何であれ、俺の気持ちは変わらないよ。俺はヨウカちゃん自身の心が好きなんだから」
「・・・サンジ様」
「だから、ずっと俺の傍にいて」
「はい・・・、はい!」
何度も頷くヨウカを、サンジは抱きしめた。
震える声や体に、泣いているのかとサンジはヨウカを見下ろし、袂で溢れでるそれを拭ってやった。
(妖とか異形でも泣くんだな・・・)
サンジは、かつて緑頭のいけ好かない陰陽師が、事もなげに言った言葉を思い出す。
『そりゃあ、妖や異形だって、悲しかったり嬉しかったりしたら泣くぞ。たしかに体の造りや精神構造は人間とは違うが、ちゃんと喜怒哀楽の感情はある。人の言葉を話せない妖でも、顔を見ればある程度は意思の疎通ははかれるもんだ』
どこか胡散臭く思って聞いていたが、今のヨウカはまぎれもなく泣いている。それもたぶん嬉し泣きだろうと勝手に推測し、サンジは笑み崩れた顔で抱きしめている腕に力を入れる。
まるでその存在を確かめるかのように。腕の中から彼女が消えてしまわないように、そっと、ぎゅっと、抱きしめた。
(彼女と出会ってから、どのくらい経ったかな・・・)
彼女と初めて会ったのは、まだ桜の盛りの頃だったと記憶している。
あの日、ゾロの邸に所用で出かけていき、その帰りになにげなく北のほうに足をのばした。
さすがに都の外れに近いこともあり、邸もそれほど大きいものはなく、人通りも少なく感じた。
そんな中で、打ち捨てられた感じのする邸に桜があることに気づき、ちょっと見物するつもりで庭に入っていったのだ。
そこで、彼女と出会った。
彼女は満開の桜の木の下に静かに佇んでいた。その光景が、まるで一幅の絵を見ているような感じであまりにも現実感がなくて、俺は天女が現れたのかと思い、つい見惚れていた。
そのうち俺の視線に気づいたのか、彼女が振り返って俺を見つめてきた。
驚いたように目を瞠ったあと彼女は、それはそれは綺麗に微笑んだんだ。
そのすぐ後に、突風が吹いて思わず目を閉じてしまい、彼女は大丈夫かと慌てて目を開くと、そのときにはすでに彼女の姿は消えていた。
それから何度もその邸に足を運んだ。
彼女がそこにいたからといって、そこに住んでいるわけではないのだから会えるわけもないことはわかっていた。だけど彼女を探す手がかりがなかった俺には、それしかできなかった。
ゾロに頼んで彼女の居場所を占ってもらおうかとも考えたが、なんとなくそれも癪で、誰にも言わずに方々を一人で探した。
そのときは、それが恋かどうかなんて知らなかった。ただあの時、あの瞬間から、俺の胸の中には、桜の華のように微笑んだ彼女が住みついていたことだけは確かだった。
梅雨が明けたころ、俺は再びあの邸へと足を運んでみた。
彼女は緑の葉が繁ったあの桜の木の下に、あの日のように佇んでいた。
声をかけあぐねていると、彼女が振り向いて、あの時と同じように目を瞠るとすぐに微笑んだ。
「こんにちは。以前にも一度、お会いしましたね」
「こ、こんにちは」
(覚えていてくれたのか・・・!)
俺は内心で小躍りしながらも外は平静を保ちつつ、彼女に笑顔で話しかけた。
「あなたさえよければ、少しお話などいかがでしょう」
「私と、ですか?」
「ええ。あ、いや、無理にとは言いません。お時間があるのでしたらと、思ったまでですから」
少し図々しいかとも思ったが、この機会を逃してたまるか、とも思っていた俺は、やっぱり彼女と会えた喜びで舞い上がっていたのかもしれない。いつもの口説き文句さえでてこなかったんだから。
どことなくあたふたしているように見えたんだろう。彼女はくすりと笑うと頷いた。
「私でよければ、お相手いたしますわ。ここで立ち話も何ですから、あちらに座りませんか」
そう言われて、俺は一も二もなく頷いた。
それから俺たちは、何度もこの荒れた邸で逢瀬を重ねた。彼女と会うのは必ずこの邸でだった。それ以外では会ったことはない。
それでも俺はかまわなかった。そんなこと、彼女との逢瀬の前には些細なことだったし、だからあえて理由を訊くこともなかった。
そして、彼女はどこか、普通の姫とは違っていた。
御簾の内に隠れるようなこともしないし、気軽にいろいろな話をしてはよく笑う。供の者の姿を見たこともないし、何より暗闇を恐れない。帰りも、迎えがくるからといって、必ず俺を門から笑顔で見送り、俺より先に帰ることは一度としてなかった。
とにかく、今までに知っている姫とはまるで違う、特別な姫だった。
しかし、すぐに気づいた。俺と彼女が会う日の前後や邸の周辺で人が消えていることを知り、彼女がいま都を騒がせる神隠しに関係しているだろうことに。
彼女が、人ではないことに。
一度だけ、俺はそれとなく彼女の様子を窺ったことがあった。彼女はふっとどこか痛そうな、それでいて後ろめたい何かを抱えているような、そんな顔をした瞬間があった。
彼女はそのとき、どう思っていたのだろう。
いつか別れなければならない男との逢瀬を繰り返していた彼女の葛藤と、その時折見せる表情の意味も俺は理解せずにいた。
けれど、心のどこかでは願っていなかったか。
彼女には普通の姫であってほしくはない、特別な存在でいてほしかったと。
だから、たとえ彼女の正体が物の怪だったとしても―――。
いつも、手を伸ばしていた。
するりとかわし、微笑みだけを残していく彼女を、いつか、つかまえることができると信じていた。
とうの昔に自分が、その深い瞳の中に、捕らえられてしまっていることにも気づかずに―――。
「・・・サンジ様。今の私の姿がお見えになるのですね・・・」
「え?ああ・・・、うん。そうみたいだ」
ヨウカに声をかけられ、サンジは回想の淵から引き戻された。
言われて初めて、そういえばとサンジは気づく。彼女が人ではない以上、普通の人間である自分には彼女を見ることは敵わないはずなのに。それでも逢瀬のときは、彼女が何らかの方法で、自分にも姿が見えるようにしてくれていたことは予想できる。しかし、今の彼女の口ぶりではそれもないだろう。
はて、なんでだろうと腕を組んで首を傾げていると、懐に軽い違和感を覚え、サンジは手を差し入れた。
指に当たった覚えのない感触に、サンジは軽く眉を寄せ、それを取り出した。
「これは・・・」
サンジはそれに見覚えがあった。
それは、幼馴染みの勝ち気な姫が、一針一針丁寧に縫い上げた小さな匂い袋だった。それをあいつに渡したらどんな顔をするだろうと、茶目っ気たっぷりに彼女は笑っていたのを思い出す。
中に入っている香は、彼女が普段から身につけている香と同じもので、そこから甘さを除いただけのものなのだ。香は同じ薫りでも、その人の体臭などで様々に変化する。そのことを踏まえて、サンジは女性受けしながらも男らしい感じのする香を使っている。
彼女と同じ香にもかかわらずそこから甘さを除いただけで、凛と佇む若竹や雪の中に咲く椿を連想させ、あいつにやたらと合っているのが癪だった。
そして、彼女はその香とは別に、髪に荷葉を焚きしめている。
荷葉の薫は蓮の花。彼女によく似合っているその薫りと相まって、まったく別のものに感じるだろう。そのことに、おそらくあの唐変木は気づいていないに違いない。
だからこうして自分に、この匂い袋を持たせられるのだ。
「どうやらそれに、何かしらの術をかけているようです。サンジ様を守るための力を感じます」
「これに・・・。あの馬鹿、大事なもんだってぇのに。お人よしはどっちだよ」
「それだけ、サンジ様を心配なさっているのですね。・・・私が、あのようなことをしたにもかかわらず」
お優しい方なのですねと、はにかむように微笑んで、ヨウカはサンジの手に自分の手を重ね、そっと匂い袋を握らせた。
「大事になさりませ」
何を、とも、誰を、とも言わなかった。だが、慈しむようなヨウカの言葉に、サンジは素直に頷いた。
「そうだね。ちゃんとあいつに返してやらないと」
ゾロがその強面な見た目に反して意外と面倒見がよくてお人よしなのは、仲間である自分たちがよく知っている。それに女子供や老人、はては動物にも無条件で優しいということも。
だから、いつしか彼女が彼に惹かれていっていることに、幼馴染み故に気づいてしまった。
表面上はこれまでと何も変わらないが、あいつを見る彼女の瞳は、言葉では言い表せない色を宿すようになった。
それを知ったとき、彼女の想いを尊重しようと決めたのだ。
(彼女のためにも、これは返さないとな)
自分にはここがどこかわからないが、きっと今頃は自分がいる場所に検討がついて向かっていることだろう。そういうところは律儀な男なのだ。
(だから、早く来やがれ)
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(2010.10.23)