グランドジパング平安草子〜慈雨篇〜 −二−
智弥 様
乞巧奠から八日後、いよいよ祈雨の儀式が近衛府の厳重な警護と、陰陽寮の陰陽師の立ち会いのもと行われようとしていた。
なにしろ帝を始めとして東宮や左大臣や右大臣といった、いわゆる殿上人といわれる人々が一堂に会するうえに、その子弟までもが参列しているのだ。この機に乗じて暗殺やらなにやらがないとは言い切れない。
そんな子弟たちの中に、ルフィやサンジ、ウソップの姿もあった。ルフィとサンジがいるのはわかるが、中流貴族のウソップまでいるのはどうやら、将来の参議の娘婿という立場からのようだった。そして、警備にあたっている近衛府の中に、ゾロの兄の姿もあった。
ゾロは四人の姿を認め、無様な姿だけは晒すまい、と気合いを入れる。そんなことになろうものなら、兄には心配され家に戻れと言われるだろうし、なにより、あとでからかわれるに違いないのだ、主に眉が巻いている奴経由で話を聞いた橙の髪の女から。
先日、ゾロは右大臣邸から帰ってすぐに、コウシロウへと返事をした。儀式のときに、コウシロウの補佐に就くと。コウシロウはそれに満足げに頷いた。
そして当日、蓋を開けてみれば、左大臣の触れにより集まった術者などは意外と少なく、どちらかと言えば、貴族と懇意にしている術者や僧侶の姿が目立っていた。左大臣の見返りを求めて貴族から推薦された者、純粋に都の危機を憂い立候補した者と様々だが、一番最後に祈祷するのがコウシロウと知るや、皆がみな、口を揃えて辞退を申し出てきた。そして、最終的には最後に祈祷するコウシロウの他には三人しか残らなかったという、笑い話にもならない顛末が待っていた。
しかし残ったこの三人、いずれもその道では名の知られた者たちであるため、誰が招神をはたしてもおかしくない状況でもあったし、三人が三人とも我こそが、と自信に満ち溢れている。
コウシロウはそれを知ると、のほほんと笑って言った。
「これで私より先に招神して雨を降らせてくれたら、私も楽できますよねぇ」
それを聞いたゾロは脱力感に襲われ、がっくりと肩を落とした。
たしかに、コウシロウより先にほかの者が招神に成功したとしても、コウシロウの名に傷がつくことはない。なぜなら、それを考慮したうえでの順番なのだから。
しかし、三人全員が失敗した場合、コウシロウの責任は重大なものとなる。もしこれでコウシロウまで失敗したとなると、コウシロウの立場が危うくなる。なにしろ、帝の信頼厚いコウシロウを引きずり落としたい輩はそこかしこにいて、それこそあの手この手で陥れようとしてくるに違いないのだから。
そしていま現在、懸念していた事態に陥っていた。あれだけ自信たっぷりだった三人が三人とも、招神に失敗したのだ。ならば、ただ純粋に雨乞いを行い雨を降らせてみせて、どうだ招神して雨を降らせたぞと、しらばっくれればいいだけなのだろうが、どうやらそこまでは気が回らないらしい。そういう意味では、良くも悪くもまっすぐな人たちだと言えるだろう。
そしてとうとう、コウシロウの番となった。
儀式は三者三様のやり方で、そのつど場を整え直しながら行っていたため思っていたより時間がかかり、すでに太陽はだいぶ西に傾いていた。
招神に集中するコウシロウに代わり、ゾロは明け渡されたその場を念入りに祓い、紙垂をつけた榊を榊立てに挿して祭壇の上に据えた。
榊は神籬。神を招き迎える依代だ。あとは四方に幣を立て、その場を祓詞で浄化する。
「かけまくも・・・」
さほと長くはない祝詞を宣り終えてから拍手を打って仕上げをすると、ゾロはコウシロウにその場を明け渡し、コウシロウの斜め後方へと座した。それと同時に、コウシロウとゾロにしか見えない程度に顕現したロビン、フランキー、ブルック、チョッパーの式神と式の四人で結界を張り、その場を清浄に保つ。神は穢れのない場にこそ降り立つのだから。
コウシロウは背筋を正し、呼吸を整え、神籬に手を合わせている。
いかなる時も、神事は真剣に行わなければならない。それがたとえ、貴族の思いつきから始まったものだとしてもだ。中途半端な心持ちで招神の秘言を唱えても、神には届かない。だから、全身全霊を言霊にのせるのだと、ゾロはコウシロウに教わった。そして今日、ゾロは初めて実践で、その教えを目の当たりにしている。
「――あはりや、あそばすともうさん、あさくらに」
コウシロウが、独特の韻律をもって招神の秘言を紡ぐ。
「・・・・・・オカミノ神、降りましませ・・・」
精神を集中しながら秘言を三度繰り返す。
唱え終わると、重い静寂が降り積もった。それに耐えられなくなったように、きぃんという耳鳴りが起こる。
奇妙に風すらもやんだ静寂の中、凄まじい神気の奔流が唸りを上げて降りてくるのを、ゾロは感じた。
しかしそのとき、予期せぬことが起きた。榊立てがまるで何者かに弾かれたように、不自然に倒れたのだ。
榊は神を招き迎える依代。それが倒れたとしたら、神はどこに降り立つのか。そこに考えが至った刹那、ゾロは立ち上がると祭壇へと走り、鋭く拍手を打ち、全身全霊をもって叫んでいた。
「クラオカミノ神、我が身に降りましませ!」
と―――。
瞬間、その場にいる者たち全員が思わず目をかばうほどに、内裏全体が豪風に煽られる。
ごうごうと唸っていた風はやがて唐突にやみ、清冽な神気が辺り一面に漂っていた。
その場にいる全員がそろそろと目を開け、次の瞬間、自分の目を疑いたくなるその光景に、声をなくした。
祭壇のある場所、その中空に静止したゾロの姿があった。夕暮れ迫る橙色の光で落ちた影は、しかしゾロの影を取り巻くように、地上に黒く長大で優美な形を描いていた。そして、そのゾロの体が発しているのは、隠しても隠し切れない、凄絶な神気だ。
しかし、驚くべきことはまだあった。それはゾロの身に起きた変化だ。
烏帽子が外れ、神気に煽られ広がる髪は柳色から漆黒に色を変え、涼やかな眼の透きとおったその色はいまや金緑ではなく、清水に反射する陽の光の黄金だ。つねに眉間に寄せられているしわがなくなり普段の強面は鳴りを潜め、端整な顔立ちが前面にでていた。
色彩は違えども姿形はゾロなのに、面差しが豹変したその姿は、神々しい凄凛な気配を漂わせた人ならざる者に見える。冴え渡る白刃に酷似した瞳には、玲瓏という表現が相応しい。
ゾロに憑依した都の北方守護の祭神は、傲然とコウシロウを見下ろしていた。その視線はこの上なく冴え冴えと燃え上がっている。
「―――人間よ」
ふわりと祭壇の前に降り立った北方の祭神は、冷え冷えとした声音でもって淡々と紡いた。
「正しい手順をもっての勧請、ゆえに我は応じた。―――何用だ」
コウシロウは背筋を冷や汗が流れ落ちるのを感じながら、頭を垂れた。
「私はアマテラスの後裔たる帝に仕える陰陽師。クラオカミノ神におかれましてはご機嫌麗しく。拝顔の栄に浴し、恐悦至極に存じ奉ります。主上の下命を受け、招神の儀を執り行いました由にございます」
「ほう・・・。では、陰陽師よ。何用か」
不遜な物言いはいつものゾロと変わらないはずなのに、その声音も口調も、普段のゾロとは似ても似つかない。
「はい。この度は、雨を司る竜神であるオカミノ神のお力をもって雨をもたらして頂きたく、勧請奉った次第。何卒、お聞き届け頂けますよう・・・」
コウシロウはその場に平身低頭し、神気に呑まれて萎縮しそうになるのを堪えて、どうにか言葉を絞り出す。
それに対し、神から返ってきたのは、意外な言葉だった。
「司るといっても、この世すべてに我が力が及ぶわけではない」
「ではせめて、都一帯にだけでも、降らせることはできませんでしょうか。このまま雨が降らなければ、農作物は枯れ、大勢の人々の生活に支障がでるやもしれません」
しかし、神は感情の見えない面持ちで口を開いた。
「それはあくまでも、人間の都合だ。雨を降らせるも天意、止ませるも天意。雨を司るといえど、天意に背くことはできぬ」
すべては大いなる天の意思。神とてそれに従う義務を持っているのだと、言外に告げてくる。
つまり、現時点で雨が降らないのは、天の意思によるものだというのだ。そうである以上、水神であるとは言え、勝手に降らせるわけにはいかないと、にべもなく断られたわけだ。
「神は全能でも万能でもないと、心得よ」
オカミノ神は淡々と言い渡す。
「はい、申し訳ありませんでした」
コウシロウはただただ、平伏するだけだった。
「用が済んだのならば、我は戻る」
「・・・はい」
神の言を受け、コウシロウは送神の秘言を唱える。
北方を仰ぎ、ついで自分の胸に手を当てて、ゾロの姿をした神は小さくひとりごちた。
「・・・これに免じて、降らせる努力はしてみよう」
しかしそれは、拍手を打つ音にまぎれてコウシロウの耳には届かなかった。
ゾロの体がぐらりと傾いだ。その体から清冽で凄絶な存在が抜け出て、瞬く間に竜身に変化し、本来なら徒人には見えない光り輝くその姿は、天を北方に翔けていった。それとともに、ゾロに本来の色彩が戻る。
それで勧請の式次第は終了だった。
「ゾロ!」
誰もが神威により身動きひとつできないでいる中、いつのまにかすぐ側まで来ていたルフィが倒れる寸前のゾロを受けとめた。だが、体格差から完全に支えきれずに、ゾロを腕に抱えたままずるずるとその場に座り込んでしまう。
ルフィに抱えられたゾロの顔色は少し青ざめていて、呼吸は規則正しいが普段のゾロからは考えられないほどにか細い。そこには先ほどまでの、人外の神々しさは微塵も残ってはいない。
力なく瞼を閉じ、ぴくりとも動かないそのゾロの姿に、ルフィはただ狼狽して、腕に力を込めてゾロを抱えることだけしかできないでいた。
祈雨の儀式から三日経ったが、ゾロはいまだに目覚めない。
それもそのはずで、憑依はただでさえ、その身を削る行為なのだ。なのにゾロは精進潔斎をして霊力を高めていたとはいえ、自らの意思をもってそれを為したのだ、体にかかる負担はいかばかりか。
完全憑依すれば神気のすべてはゾロの身の内に隠れるものなのだが、今回はゾロの意識があったこともあり、表層の部分だけに憑依していたようだ。その証拠に、神気は体から溢れだし、ゾロの髪や瞳の色が変化し、地に映る影は竜神のものだった。
しかし、還り際に徒人にも見えるようにと、わざわざゾロの霊力を使って姿を見せずともよかったのではと、いまさらながらに思ってしまう。
神の憑依によりゾロは体力と気力を削られ、そのうえさらに霊力までも根こそぎ持っていかれてしまった。そのどれかひとつでも残されていれば、強靭で頑強な体躯に、それに見合う、いやそれ以上の気力と精神力を併せ持つゾロのこと、ここまでの昏睡状態に陥ることもなかったはずなのだ。
それにしても、とコウシロウは今回のことでわかったことがある。
それは、すでにゾロは自分を超えている、ということだ。
自分は招神に際して『クラオカミノ神』と『タカオカミノ神』の二神を称して呼ぶ際の『オカミノ神』という名を用い、どちらの神にも言霊が届くようにしたが、ゾロは降り立つ神気を感じただけでそれが『クラオカミノ神』だと判じた。自分は降り立った神の神気に直に触れても、どちらの神かわからなかったというのに。
ゾロはいまだに精進が足りないと思っているようだが、コウシロウにあってゾロに足りないのは、圧倒的な経験値の差、それだけである。それさえ積めば幾年とせずに、ゾロが希代の陰陽師と称される存在になることは請け合いだ。
だがしかし、いまは静かな環境で休ませてやれるだけでもありがたい、とシャンクスに感謝するコウシロウだった。
式次第が終了したあと、いまだ茫然自失に陥っている面々の中、いち早く我に返り、後々の面倒を見越したうえで迅速に行動したのがシャンクスだった。
ゾロを抱えたままの息子に、そのままゾロを連れて先に右大臣邸へと帰らせ、自分が帰るまでは、誰ひとりとして決して、邸には入れないように言い付けたのだ。
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(2010.09.25)