グランドジパング平安草子〜慈雨篇〜 −三−
智弥 様
ゾロにあてがわれたのは、邸の中でも一番正門から遠く、外の喧騒が聞こえない静かな部屋だった。
ルフィが連れ帰ったゾロを一番奥まったそこへと寝かせたのは、内裏で起きたことの概容をルフィから聞いたナミの機転だった。はからずもそれは、シャンクスの思惑と一致していた。
おそらく内裏では騒ぎになっているだろうし、もしかしたら誰かが内裏でのことを聞くためにゾロを訪ねてくるかもしれない。でも、いまのゾロには意識がない。それなら喧騒の届かない、家人以外の他人の目の届かない静かな場所で休ませたいと、ナミは考えたからだった。
それから三日、ゾロは昏昏と眠り続けている。そしてその間、ナミはずっとゾロの傍に居続けた。
『心配ないよ、ナミ。ゾロはただ眠ってるだけだから。寝るのはゾロの回復法みたいなものなんだ』
「でも、チョッパー・・・」
『大丈夫、もうすぐ目を覚ますはずだから。ゾロが起きたときにナミがそんな顔してたら、ゾロはきっと気にしちゃうよ』
「そう、かな?」
ナミは窘められたことに不服そうに呟くが、チョッパーはさらに言葉を続ける。
ゾロは自分の身体のことよりも、自分に親しい人たちのことを優先するところがある。だから、ナミが目の下に軽く隈をつくっている様を目を覚ましたゾロが見ようものなら、自分の不甲斐なさに憤ることだろう。チョッパーとしては、できるだけ病み上がりのゾロには心安やかに安静にしていてほしい。そのためにはナミに休んでもらう必要があると結論づけた。
「うん、だからナミは休みなよ。ゾロが起きたら知らせるからさ」
「・・・うん、わかった。ありがとう、チョッパー」
そう言ってチョッパーはナミの前に顕現し、心配するナミを慰め、部屋へと戻らせた。
実際、西の大陸の医術を体得しているチョッパーから診ても、ゾロは怪我をしたわけでも病を得たわけでもなく、ただ体力気力霊力のすべてを使い果たしたために衰弱して、いまは回復のための眠りについているだけなのだ。
そして三日経ったいま、ゾロの目覚めの徴候はでている。外部の物音に徐々にではあるが、微かに反応するようになってきていた。ゾロが目覚めるのも、もうすぐだろうと思われた。
ゾロが目覚めるまではと、右大臣邸でゾロと共に世話になっていたコウシロウは、夜明けとともにゾロの様子を見に部屋を訪れていた。しかし、そこにはすでに先客がいた。
「これは・・・。ルフィ様、ナミ様、おはようございます」
「おう。おはよう、コウシロウ」
「おはようございます、コウシロウ様」
柔らかく微笑んでコウシロウはルフィとナミに挨拶をする。ルフィとナミもゾロを気づかってか、やや声を落として挨拶を返してくる。
「ルフィ様、今日はお休みでしたか?」
もうすぐ出仕の時間だというのに、まだ狩衣姿のルフィを訝しく思い、コウシロウは訊ねる。それにルフィはにかっと笑って答えた。
「うんにゃ、物忌みだ」
「という名の、さぼりよ」
即座にナミの訂正が入る。
「だってよぉ、出仕している間にゾロが目ぇ覚ましたらどうすんだよ」
「べつにどうもしないでしょ」
ナミが素っ気なくいなす。
「俺がいない間にいったん目ぇ覚まして、そんで俺が帰ってきたとき、またゾロが寝てたんじゃつまんねぇだろーが、俺が!」
「あんたがかっ!」
胸を張って言うルフィに、ナミは思わず力いっぱい突っ込んだ。それをコウシロウは微笑ましげに眺めている。
刹那、凄まじい神気が天から降りてきた。
「これは!?」
「えっ、なっ何!?」
弾かれたように、コウシロウはゾロを見やった。それにつられて、ルフィとナミもゾロを見る。
茵の上に、眠っていたはずのゾロが、片膝を立てて起き上がっていた。
「・・・っ」
ルフィは声をかけようとして、口をつぐんだ。ゾロがそれを認めて軽く目を細める。
おもむろにルフィがナミを軽く引っ張り距離を取らせると、剣呑に目を輝かせながらゾロを睨みつける。
「おまえ、誰だ。ゾロじゃないな。内裏に現れたやつか」
無言でルフィを見返していたゾロは、ふっと口元だけで笑った。
「ほう、一瞥で見抜いたか。おもしろい奴よ。なあ、陰陽師」
声をかけられたコウシロウは膝を折ると、板張りに手をつき頭を垂れる。
「何かご用でございましょうか、クラオカミノ神」
「クラオカミノ神・・・」
徒人であるルフィやナミが感じているかはわからないが、ゾロが発しているのは、隠しても隠し切れない凄絶な神気。いや、もしかしたらルフィは感づいているのかもしれないが。
「クラオカミノ神、彼はただの人間です。完全憑依は彼の身を削ることにもなりかねません」
コウシロウの言葉に、ルフィははっとする。その脳裏に、内裏でゾロの身に起きたことが思い出される。たしか、ゾロはあのあと倒れたのではなかったか。そして今日まで一度も―――。
ゾロはルフィの胸のうちを見透かしたように言った。
「案ずるな、子供よ。用件がすめばすぐに出て行く。本性のままここに顕現するのは、少しばかり人騒がせだと思ったものでな」
「だからって、なんでゾロなんだよ」
「しかたあるまい。ほかにより良い形代があるのならともかく、選択肢がないのだからな」
神を相手に一歩も引かないルフィ。それをコウシロウは、いつ神の機嫌を損ねるかと、内心はらはらして見守る。
そんなやり取りの間、内裏での出来事を話には聞いていても実際には目にしていないナミは状況を理解できず、ただゾロの様子に固唾を飲み込んで驚愕の眼差しでゾロを見つめている。
ゾロは普段から年不相応の表情や言動や行動をするが、それでもこのように完全憑依されてしまうとすべてが一変してしまって、違和感どころの騒ぎではない。それを目の当たりにして、ナミは傍目にもわかるほど緊張しているようだ。
「ナミ様。姿はゾロですが、こちらは北方の御祭神で、クラオカミノ神と仰せられます」
コウシロウはとりあえず、ナミにそう説明する。それにナミは慌てて頭を下げる。
「あ、えっと、お初に御目文字仕ります」
頭を下げたナミをしばらく見ていたクラオカミノ神は、すいと手を伸ばすと、冷たい指でナミの顎をつかみ、自分のほうに向けさせた。
「・・・・・・ぇっ」
さすがに息を呑んで肩を震わせたナミを見据えて、神は薄く笑ったまま軽く目を細めた。
「・・・ほう。人にしては、なかなかの美貌だな。これからが楽しみだ」
思わぬ事態にナミは硬直し、ついで顔を赤らめた。なにしろ中身はクラオカミノ神でも、外身はゾロだ。ゾロがナミにこんな顔を向けたことも、こんなことを言ったことも、一度としてない。
「それで、何用でございましょうか」
先を促すようなコウシロウをちらりと一瞥して、神はナミを解放した。その途端、明らかにほっとしたようにナミは体の強張りを解く。
そんなナミを斜の構えで見やり、クラオカミノ神は片目をすがめる。しばらく沈黙してから、神は硬い声音で告げた。
「お前に、頼みがある」
「頼み、ですか?天津神であるクラオカミノ神が、人間の一介の陰陽師にですか?」
神が直々にそのようなことを言うとは、とコウシロウはつい身構える。
「口の減らない・・・。まあ、いい。それほど深刻な顔をするな、大したことではない」
「そうは思えませんが・・・」
コウシロウはいつもの飄々としたふりをしている裏で、ひどく緊張しているようにナミには見えた。
「お前は、雨を降らせたいのだったな」
「はい」
「降らせたいのならば、その機会をくれてやろう」
「クラオカミノ神、それは・・・?」
ゾロに憑依したクラオカミノ神は、やおら天を振り仰いだ。
「我が為してもよいのだが、それでは少しばかり不都合が生じるのでな。ならば、お前たちにやらせようと思ったまで」
「・・・私たちに叶うことならば、なんなりと」
どこまでも威高な態度を見せる神に、コウシロウは嘆息を呑みこんで殊勝に応じた。自分はあと十何年もないだろうが、ゾロはこれから先も長く付き合っていかなければならない相手だ、ここで下手に機嫌を損ねるのはまずいだろう。
だが神が口にしたのは、予想もつかないことだった。
「封じられたタカオカミノ神を、その呪縛より解き放て」
コウシロウはその言葉を聞いて驚愕したが、それと同時に、この神が雨を降らせられない疑問が解けた。
タカオカミノ神の『タカ』は『高』で高い山の峰にあって雨を司る神の意で、クラオカミノ神の『クラ』は『闇』で峰から下る渓流に宿る神の意。この二神の力を合わせることで、山に降った雨はやがて谷を下って川となり野を潤す。そのうちの雨の神が封じられたために雨が降らないということなのか、と。
しかし、天津神を封じるとは、一体何がそれを成したのか。
神は薄く笑うと、難しい顔をしているコウシロウを眺めやる。
「ただで、とは言わん。我の助けが欲しいときは呼ぶがいい。もっとも、その『声』が我の耳に届けばの話だが」
「届くに決まってる。ゾロはそれだけの力を持ってるんだからな」
ルフィの不遜な言い草に、神はただ微笑している。
コウシロウはさらに眉根を寄せた。
ずいぶんと都合のよい話だな、と。
雨が降らないのはタカオカミノ神が封じられているためで、それを解き放つのはクラオカミノ神では何かしらの不都合が出る。だから雨を降らせたがっている自分たちにその任を押しつけてしまえという訳か。
しかしその一方では、もし助けが欲しいとき自分たちがこの神を呼んだら、その声が真実であったなら力を貸してくれると、この神は約定をくれようというのだ。
何か、絶対に裏がある。
警戒心と不安をない交ぜにしたような顔をしているコウシロウを一瞥し、クラオカミノ神はさらに言葉を綴る。
「信じる信じないはお前たちの勝手よ。だが、違えることはないと心得よ」
コウシロウは嘆息した。尊大な態度は崩さないが、神のまとう雰囲気には切迫したものが滲んでいる。
「承りました」
それを聞いたナミが目を剥いた。
「そんな!いいんですか!?」
「しかたありません。クラオカミノ神直々の要請ですから」
「いいじゃねえか、ナミ。おもしろそうだ」
すでにやる気満々のルフィの様子に、コウシロウは肩を竦めてみせる。
「用件はそれだけだ。『これ』もそろそろ限界のようだ、我は戻る」
それを最後に、ゾロの体が突然均衡を崩して倒れこむ。ナミはとっさに手を伸ばして、彼の体を受けとめた。
何か、清冽で凄絶な存在が、ゾロの体から抜け出て飛翔していく。ナミの目には見えないが、それだけはわかった。
ナミの腕の中で、規則正しい寝息を立てているゾロはもう普段のゾロで、ナミはようやく、全身で息を吐き出し肩の力を抜いた。
神が去っていった軌跡を追っていたコウシロウは、気遣わしげな目をしてナミを覗き込んだ。徒人とはいえ、強すぎる神気に触れていては障りがでるからだ。
「大丈夫ですか?完全憑依していましたから、神気のすべてはゾロの身の内に隠れていましたが・・・」
「いえ、大丈夫です。でも、北方の神様って・・・」
「神というのは唯我独尊で気まぐれなもの。神だけに、こちらの都合など考えもしませんから」
ゾロが眠っていたからたいして抵抗もされずに入り込めたのだろうが、たとえそうであっても大変な負担がかかる。それでも呼吸はしっかりしているゾロの様子をみると、クラオカミノ神はできるだけ負担をかけないようにと、神気を抑えていたようだ。
「それにしても、あの神を完全に依り憑かせてしまったというのも、凄いことではありますね」
コウシロウはナミの腕の中で、安心しきったような少し幼い寝顔で眠っているゾロを見つめながら呟いた。
「にっしししっ、さっすがゾロだな!」
ルフィは自分のことのように喜んでいる。
「・・・とんでもないものに、気に入られてしまいましたね」
おそらくはルフィとゾロが、だろうが。
味方につけば頼もしいが、ひとたび勘気をこうむろうものなら、末代まで祟られる。
「本当に、困ったものですね」
言葉とは裏腹に、コウシロウの顔は穏やかだった。
←2へ 4へ→
(2010.09.25)