グランドジパング平安草子〜春愁篇〜  −二−
            

智弥 様




 社務所を通り過ぎ、向かうはその先の小さな社だ。昨年の春にその社まで来たのは、ゾロとサンジだけだった。
 あの時、なぜ自分たちだけがあの社に足を向けたのか、ゾロは記憶を手繰った。
 たしか、そう、先に動いたのはサンジだった。
キブネについて花見を始めてしばらくしたとき、ゾロは何かしらの力を山奥から感じた。
 その力は神力というよりは、どちらかというと馴染みのある、チョッパーのような精霊がもつものに近いものだと判断した。
 ゾロがそう見極めている間に、まるでその力に誘われるかのように、サンジがふらふらっとそちらへと歩き出したのだ。
 ゾロはどうするべきか一瞬悩んだ。ルフィたちをここにおいたままにして追いかけるべきか。それとも、サンジは子供ではないのだし戻ってくるのを待つべきか。
 しかし、護衛についてきていたロビンが一瞬顕現し、ゾロに追いかけるように促した。ここは自分が見ているから、と言って。
 ゾロは頷くと、小走りにサンジの後を追った。
 サンジは道々の桜を眺めながら、のんびりと歩いていた。そのためゾロは、程なくして追いつくことが出来た。しかしそこで、強引にサンジを連れ戻さないところがゾロだった。
 気が済むまで歩かせておけば、そのうち戻るだろうと考えていたからだ。ゾロが問題としていたのは、神の座所とはいえサンジを一人にしておくこと、だったのだから。
 そして件の社に着いたとき、ゾロはその側にある桜の古木に目を奪われた。いや、正しくは桜そのものに、ではなく、桜の前にいるものに、だった。
 ゾロはちらりとサンジを横目で見たが、サンジがそれに気づいた節はない。ではこれは、自分にだけ見えているのだと、ゾロは確信した。でなければ、今目の前にある光景に、あのサンジが反応しないわけがないのだから。
 桜の古木の前に、女が一人、いた。
 淡い光を纏い、漆黒の髪を風に遊ばせて、細く白いたおやかな手には桜の花が描かれた扇を持ち、軽やかに、鮮やかに、厳かに、舞い踊っていた。
 その舞が何のためのものなのか、ゾロは瞬時に悟った。無骨なゾロでさえ、しばし時を忘れ、引き込まれるほどの舞。
 この桜の木霊は、このキブネの祭神のために舞っているのだと。
 そして、ゾロが社の側にある桜を見つめていることにようやく気づいたサンジは、周りの桜からゾロが見ている方へと目を向けた。
 そして、ゾロとは違う意味で、サンジは息を呑んだ。
 サンジが目にしたのは、年月を感じさせる古い桜の木。
 幹周りはそれなりに太さはあるが、枝振りはあまり良くなく、その枝の所々にぽつりぽつりと申し訳程度に花を咲かせた、一見するとみすぼらしい感じのする桜の木。それでもなお、凄絶で荘厳な佇まいを見せつけ、他の桜とは一線を画していた。
 サンジもまた、その桜の木に釘付けになってしまった。ほけっとしたようになりながらも、思わず呟いていた。
「すげえ・・・。なんて、力強い桜なんだ」
 ―――花はぽつぽつとしか咲いていないけど、それでも、それを補って余りある存在感だな。すごく綺麗だ。
 夢見心地のように呟くサンジを、ゾロは目を眇めて見やった。木霊の姿が見えているわけでも、その力を感じているわけでもないのに、徒人であるサンジが魅せられている。それだけこの桜の木が持つ力が絶大だということだ。
 霊性が高いものは、ただそこにあるだけで、人を魅了する力があるのだから。
 サンジは桜を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし(私があなたを愛しく思うように、あなたも私を愛しいと思っておくれ、山桜よ。こんな山奥では、あなたのほかには私の心を知るものは誰もいないのだから)・・・なんてな。そう詠んだ奴の気持ちが、いまならわかる気がするぜ」
 そう言ったあと、サンジは一人照れたように笑ったが、その呟きが聞こえたのか木霊はぴたりと動きを止め、サンジを真摯に見つめた。
 その様子にただならぬものを感じたゾロは、それを見極めようと意識を研ぎ澄ました。
 そんなゾロには気づかずに、サンジはその桜に相応しい人物像を、できるだけ具体的に思い描くのに集中していた。
「この桜を女性に例えるなら、そうだな・・・髪は濡れたような黒絹に白皙の顔、桜のような唇、華奢な体に儚げな雰囲気。無条件で守ってやりたくなるような姫だな。だけど、芯はしっかりとして、自分をちゃんと持っている、そんな女性だ」
 その発想に、サンジはいたく満足して頷いた。次の瞬間、ゾロは目を瞠った。
 サンジの言葉通りに、木霊の姿が変化していったからだ。
 精霊が人間の言葉を受け入れたという事態に焦ったゾロは、サンジの意識を他に向けるために、焦りを隠し、さも呆れた風情を装って口を開いた。
「よくもまあ、ぺらぺらと口が回るもんだ。いい加減、それくらいにしとけ」
「ああ?まだまだ思いつくぜ、俺は」
 ゾロの心中などおかまいなしに、まだ言い足りないようなサンジにゾロは渋い顔をしてみせた。
「いいから、やめとけ。後悔することになっても知らねぇぞ」
「・・・は?後悔?何言ってんだ、おまえ」
 いまいち要領を得ないうえに、珍しく喧嘩腰でないゾロの言葉に、サンジは突っかかる間合いを逃してしまったようだ。しかしそれで、桜への注意は反れたようだった。
「おら、行くぞ。ルフィたちが下で待ってんだ」
 これ幸いと、サンジの気が変わらぬうちにさっさと歩き出したゾロを、サンジは慌てて呼び止めて桜の木に近づいていった。
「ああ、ちょっと待てって」
「ああ?」
 まだ何かあるのかとわずかにいらついて振り返ったゾロは、きつい視線をサンジに浴びせたが、サンジはそれを無視して桜の木に手を当てた。
 桜の木を見上げて、サンジはしばらく考え込んでいるようだった。ゾロは嫌な予感がして制止の声をあげようとしたが、サンジが満足げに頷いてそれを口にするほうが早かった。
「うん、決めた。この桜の名前は、珱花だ。紐で繋いだ玉の飾りのように枝々に華を咲かせ、妖しい美しさを湛えた桜の木だから、珱花(ようか)」
「おい、サンジ!」
 ゾロは色をなくした声を上げた。サンジはただ、気に入った桜の木に名をつけただけと思っているだろう。しかし、意図したわけではないだろうが、サンジは精霊に名を付けたのだ。それは、精霊を式に下すということに他ならない。もしかしたら神の眷属かもしれない木霊を、知らないこととはいえ式に下すなどという暴挙、恐ろしくてゾロには想像もできない―――いや、したくもない事態だった。
 もしこれでサンジに何かあったら、自分はどう責任を取ればいいのか。
 珍しく切羽詰ったようなゾロを不審に思ったのか、サンジは怪訝そうにゾロを見ていた。
 ゾロは苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をして桜の木、正しくは桜の木霊を睨んだ。
 サンジが名付けたわりには、木霊には外見が当初より少し変わった程度で、目立った変化は見られなかった。内包する力にも変化はなく、安定している。サンジが徒人であったことが幸いしたのか。これがゾロやコウシロウが行ったのであれば、こうはいかない。その場合この木霊は、名付けられた瞬間にでも式へと下っていただろう。
 まあ、サンジだしなぁと、さも仕方がないと言わんばかりに、ゾロはがしがしと後頭部を掻いて盛大にため息を吐いた。
「ったく、しょーがねぇなぁ。・・・まあ、大丈夫、か」
 いざとなったらサンジが放った言霊を打ち消そうと、再度木霊の様子を注意深く観察したゾロだったが、特に変化が見られなかったため、大丈夫だろうと自分に言い聞かせ、ゾロは渋々といった態で踵を返し歩き出した。
「じゃあね、珱花ちゃん。また来年、見に来るよ」
 後ろでは未練がしそうにサンジが桜に別れを告げていた。それを背で聞きながら、ゾロはようやく、サンジと木霊の間に感じた何かの正体に気づいた。
 木霊がサンジを見つめていた、あの瞳。あの瞳に宿る不可思議な色、あれは・・・。
 ―――ナミが、自分を見つめている時のものに、酷似してはいなかっただろうか、と。


 件の社に辿りつき、ゾロとサンジは一点を見つめた。
 そこは、あの桜の古木があった場所。そして、今は何もない場所。
 あのあと、立ち枯れた桜の木は倒木の危険性があるとして切り倒され、地中からも根を掘り起こし、全てを撤去してしまった。その際、コウシロウは一人で木の神霊を鎮めるという理由で祝詞を奏上していた。だがこれは建前で、実際はキブネの祭神へ撤去に至るまでの経緯の説明をしていたのだった。さすがに立ち枯れているとはいえ、祭神のお気に入りを人間が無断でどうこうするのはまずいだろうと、コウシロウは判断したからだ。
 サンジは木があった場所まで歩を進めるとおもむろに片膝をつき、綺麗にならされかつての痕跡すら残っていないその地面に手を伸ばし、労わるかのように撫で擦った。
「・・・やっぱり、もう、何もないんだな」
 サンジがぽつりとこぼしたそれは、まるで自分に言い聞かせているかのような呟きで、ゾロはサンジにかける言葉が見つからなかった。
 しばらく二人でそうしていると、ゾロの背後に気配が降り立ち、ゾロだけにしか聞こえない声がかけられた。
『おいでくださったのですね』
 声をかけてきたものの正体に気づいたゾロは、後ろを振り向くことなく答えた。
「約束、したからな」
 あいつが、とゾロはあごをしゃくってサンジの方を示した。
『それは・・・痛み入ります』
 背後にいるものは恐縮したようにそう言った。そこで初めて、ゾロは肩越しに背後を振り返った。そこにいたのは桜色の唐衣を纏った妙齢の女性――珱華だった。
 サンジは彼女に気づくことなく、いまだに片膝をついた状態から動かない。
 ゾロはいい機会だからと、これまで疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「ひとつ訊きたいんだが、いいか?」
『はい、なんなりと』
 珱華が頷くのを確認し、ゾロは顔を前へと戻す。さすがにずっとこの姿勢をとっているのは辛いものがある。
「おまえとあいつが初めて出会ったのは、昨年の春、ここで・・・だよな?」
 ゾロはあの日の珱花の反応が気になっていたのだ。初めて会ったはずなのに、すでに見知っていたかのような反応を示していたから。
 しかし珱華から返ってきたのは、意外なものだった。
『いいえ。あの日が初めてではありませんでした』
「は・・・?しかし、おまえは・・・」
『お忘れですか?あの荒れた邸にある桜のことを』
 珱華の指摘に、ゾロは「ああ、あれか」と思い出す。
 左京の北の外れにある、かつては貴族の別邸だっただろう荒れた邸。そこの庭には桜の木がある。それはかつて、珱花の本体から枝分けされたものだった。
『昨年の春に、私はその木の様子を見に訪れていました。ちゃんと咲いているかどうか、気になりましたものですから』
「じゃあ、そこで?」
『はい。今でもしっかりと覚えています』
 珱華は懐かしそうに目を閉じた。
 いまでもはっきりと覚えている。あの日、サンジに会ったことを。




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(2011.06.29)



 

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