このお話は、「愛のある島」の続編となっております。





砂の城 −1−

            

おはぎ 様






 火照る肌に一筋の冷風を感じ、たしぎは手を止めて天を仰いだ。
 見上げれば、目眩すら覚えるほどの青。天から定められた『青』という絵の具一色に塗り固められた空が、悠然と在る。所々で浮かんでいる雲は、あまりに小さくあまりに白く、青を引き立てる役目しか果たしていないようだ。
 降り注ぐ日差しが熱を帯び、照り返しと相まって熱く身体を灼く。たった今感じたはずの風は、もう何処にも存在しなかった。何となく気を削がれ、彼女は振り続けていた木刀を地面に下ろす。
 顎を伝う汗の感触が気持ち悪い。手の甲で拭いながら、そっと息をもらす。それまで何も考えず稽古に集中していたのに、あの風のせいで突然とぎれてしまった。どうしたというのだろう。体調が特に悪いわけでもなく、悩み事があるわけでもない。あんな微風に惑わされる理由が判らない。
 一度頬を叩き、彼女はどんどん冷めていく身体と、余計なことを考え始める意識にカツを入れた。こんな静かな場所で暮らしているうちに、怠惰が身に染みついてしまったのだろうか。
 「 ──── 大佐?」
 遠い昔、その背を追い続けていた人と同じ階級で呼ばれ、たしぎは一瞬かの人の影を探した。気が逸れてしまった彼女を叱りとばすのはいつだってその人の役割だったので、また叱られるのかと自然、身体が固くなる。
 が、当然のことながら視界の先には海軍の宿舎しかなかった。二、三度瞬きした後、己の勘違いに気づき、慌てて振り返る。その所作に驚いたのか、彼女に声をかけた若い海兵は僅かに身を逸らした。その背後に立ち並ぶ十数名の訓練兵は、彼女と同じ木刀を提げ、視線だけで指導者の動向を見学している。
 「は、はいっ! 何でしょう!」
 「どうかされたんですか?」
 「あ……」
 唐突に思い出した。
 ここはカテドラルアイランド。海賊も海兵も制度上存在しない、平和の地。よって、まだ実戦経験もない海兵の卵たちを鍛えるにはもってこいの土地。
 彼女は今ここで、海兵を志望する若者達の指導を任されているのだった。
 「いえ……、えーと、そうですね」
 そもそも自分がどうして訓練を止める気になったのか判らないまま、一応指導者らしい言葉を探す。彼女の言葉を待っている沈黙が、頬に痛かった。わざとらしく咳払いをし、年若い訓練兵たちを見渡す。
 「日差しが大分強くなりましたし、すこし水を飲んで休憩をしましょう」
 「休憩ですか?」
 意外だ、と言わんばかりの声音にことさら生真面目な返答を返した。
 「はい。訓練も必要ですが、休息はそれ以上に大切です。大体、20分……」
 くらい、と言いかけて、彼女は息を呑む。
 振り返ったこの位置からは、訓練兵だけでなく広大な海軍施設全体がよく見渡せた。
 左手に海兵たちの学舎があり、視線の先には運動場が広がっている。右手の奥には、運動器具を収める倉庫があり、傍らには倉庫に収まりきらない運動器具の類が整然と並べられていた。その全体を守るように、あるいは封じるように取り囲んでいるのが鉄条の柵。
 柵には海軍の信義である『絶対正義』の文字が堂々と掲げてある。
  ──── その先に、何か見えた。
 そう、何かとんでもなく不穏なものが。
 この穏やかで、空も海も蒼く穏やかに光り、草原は麗しく緑をたなびかせる。この世界にそぐわない、とんでもないものが。
 口元を押さえ、目を見開いて黙りこくっていると、兵士は不審げに首を傾げた。
 「大佐?」
 彼女に与えられた称号は未だ身体に馴染まず、いつでも違和と戸惑いばかりを運んでくるのだが、この時ばかりは微塵も感じなかった。後ろに何かあるのだろうかと、男が振り返る一瞬前、たしぎは大声を張り上げた。
 「いえ、30分! じゃなくて、40分休憩にしましょう! たっぷり水を飲んで、影で休んでください! 熱射病になったら大変だし!」
 「はあ。でもまだ、午後の訓練は始まったばか……」
 「いいえ、その油断が大敵です! 皆さん、学舎に入って休憩してください!」
 「で……」
 「解散!!」
 皆まで言わせず、彼女はすさまじい気迫と意思を込めて叫び、そのまままっすぐ駆けだした。




*****




 施設の外に飛び出すと、問題のソレはちょうど『絶対正義』の影から抜けだし、倉庫の影に入る所だった。海軍の施設を物珍しげに眺め、何が気に入ったのかしきりに頷いている。腕を組み、倉庫をしみじみと見上げ、少しだけ笑った。かと思えば、いきなりかがみ込んで、金網越しに倉庫と柵の間に挟まったボールをつついている。
 その姿はひたすらに暢気で、最後に会った時と何一つ変わるところはない。たしか、男に会ったのは十ヶ月ほど前が最後のはずなのだが。微かに違和感を覚えたものの、原因を特定できるまでには至らないまま、たしぎは時の流れに混乱を覚えた。
 この島にいる限り決して感じるはずのない、雑踏の臭いとむせ返るばかりの人いきれ。埃とすえた魚油の臭いが、一度に脳裏に蘇る。海賊を追い、部下を引き連れ、夜遅くから朝日のまぶしい時間まで巡回に廻った日々の記憶が。
 そこで初めて、男は顔を上げた。
 肩で息をしながら佇む彼女に気づく。
 数秒の沈黙。
 そして、彼は先ほど別れたばかりの旧友に挨拶を送るように、片手を挙げてみせた。
 「よう」
 「 ──── ロロノア、ゾロ……」
 「元気そうだな」
 「だな、じゃ、ありません!」
 未だ整わない息を飲み込むことで堪え、たしぎは暢気に佇む男に近づいた。一歩踏み出すと幻覚は消え、潮風と波の音の心地よい任務地に戻る。
 「こんなところで、なにをしてるんですか!」
 「……観光、だな」
 「だな、じゃありません!!」
 もう一度、今度は語尾をきつくして叫び、彼女はひたすら無防備な旅人に指を突きつけた。
 「何だって海賊のあなたが、海軍の施設を見学してるんですか! 判ってるんですか? 今のあなたは世界最高額の賞金首ですよ!? なのに……」
 「ここじゃ、賞金首なんてのは無いって聞いたが」
 「非常識すぎるって言ってるんです!」
 「あー、はいはい」
 五月蠅げにあしらわれ、むっとする。自分が言っていることはウソではない。麦わらのルフィの居所が分からない以上、相棒であるこの男が目下最高額の賞金首なのだ。賞金狙いはもちろんのこと、名を挙げたい、あるいは何らかのおこぼれに預かりたいなどといった理由で男を狙う人間は多い。
 このラストリゾートと呼ばれる地でさえ、何が起こるかわかりはしないのだ。
 彼女の気遣いには頓着せず、ゾロは近づいてきて親指で海軍施設を指し示した。
 「訓練所か?」
 何が言いたいのか疑いながら頷く。
 「監督官だってな」
 誰から聞いたのだろう、と訝しく思えば、心当たりは一人しかなく、少しだけ胸がうずいた。男は彼女の動揺など一欠片も気づかず、悪巧みを思いついた顔のまま、あろうことか親指で自分の首を切ってみせる。
 「 ──── クビか、左遷か?」
 「なっ!」
 「てめえ、結構いいところ仕切ってたじゃねえか。こんな所に飛ばされるなんざ、何のヘマやらかしたんだ?」
 「しし、し、失礼なこと言わないでください!!」
 あっという間に紅潮した頬で、たしぎは思い切り怒鳴った。ゾロは性質の悪い笑みを浮かべ、左手を滑らせ、彼女のすぐ上あたりの金網を掴む。そうされると、男の体温を感じるようで居心地悪い。
 半歩引いて体勢を整え、彼女は肩を怒らせ、まくし立てた。
 「この場所はですね、未来の海兵を育てる大切な場所なんです!」
 「……へえ」
 「この場所でみんな海軍の基礎を学び、海賊たちの横暴を阻止するために立ち上がるんです。いわば、聖地ですよ、聖地! だから、わたしは……」
 彼女が空けた半歩分の距離を大股の一歩で縮めることで、男はたしぎの言葉を封じる。身体を丸め、彼女の頬に小さく囁く。
 「で、毎日ガキとじいさんのお相手か?」
 息だけで作られた言葉が頬にくすぐったい。
 「……う」
 「つくづく、物好きだな。てめえ」
 図星を指されたせいなのか、男との距離のせいなのか、たしぎは益々紅潮した。
 男は無駄に迫力のある三白眼を細め、その反応を楽しんでいる。
 勢いよく口唇を開き、飄々とした男の頬目がけて、思い切り反論しよう……、としたところで彼女は思いとどまった。なけなしの理性が邪魔したのだ。
 あるいは、見透かされて言葉を無くしたせいかもしれない。
 ここ、カテドラルアイランドは数ある海軍施設の中でも有数の広さを誇っている。
 そして、それらすべてはもちろん、男が思っているように単純な、『新兵訓練所』などではない。
 中にある施設は様々だ。彼女が所属している新兵の訓練所はもちろん、戦術研究所、武器兵器開発所、悪魔の実の研究所、生物兵器の研究施設まであり、それに伴う資料や文献、実験装置の類まですべてここに備えられている。噂では、世界政府に見つかっては拙いものまで、ここで研究されているのだという。
 海軍の大学であり、世界最先端の軍事機関。
 それが、この施設の真の姿である。
 しかし、そんなことはもちろん機密事項だ。
 例え相手が誰であってもばらすわけにはいかないし、まして海賊相手なら、何をかいわんや、だ。しかも、そんな場所に彼女自身行ったこともなかった。呼ばれるはずもなければ、用があるはずもない。
 多分、行けば“モノを壊す”という理由で即座に退出させられるだろう。
 要するに、そんな『世界最先端の軍事機関』の一角で寝泊まりしていながら、彼女が毎朝、毎日していることといえば、ずばり男の言う通り、『ガキとじいさんのお相手』だけ ──── 。
 結果。
 「ち、ち、違います。そんな、失礼な! それも、名誉で、で、あの……」
 握りしめた拳の先に、殆ど意味のない言葉だけがぽろぽろ落ちていく。
 「正論だろ」
 「…………」
 単音を並べることさえ諦めて、たしぎは唇を固く噛んだ。認めるのは悔しいが、男の言うこともあながち嘘ではない。
 広大で景色のいいリゾート地にある海軍施設は、場所が場所だけに、もう一つの顔を持つ。
 海賊もいないため、派遣されるのは当然の事ながら新兵か、リハビリ目的の傷病兵、でなければ退役軍人か退役間近の者だ。そして、新兵たちはともかく、退役軍人らが呼び戻されることは皆無。その事実が意味している所は、明かであろう。
 ここは、後身を鍛えるという名目上送り出された退役軍人たちの、いわば楽園なのだ。
 それを揶揄する人間も多いため、こちらのほうが一般に有名であり、不名誉な事実でもある。
 老いた将校たちにとっての大切なリゾート地に、たしぎが派遣されたのは、三ヶ月ほど前だ。研究員ではなく、海賊を取り締まっている現役の将校が、この地へ送り込まれるのはきわめて異例と言える。
 それまで、彼女が管轄する地はグランドラインの中にあった。交易の盛んな島を中心に、半径500海里。そこに存在するすべての船や人々の安全を彼女は任されていたのだ。ドジや些細な失敗は数知れず、だがおおむね勤務状態は良好で周囲の評価も高かった。
 しかし。
 そう、しかし。
 それまで順調だった任務に影が落ちたのは、半年ほど前だった。
 ゾロは心底楽しげで且つ意地悪く、苦悶する彼女を眺めている。
 「で、なにやらかしたんだ?」
 「何もやってません! ただ……、その……」
 たしぎは追いつめられながら、両手を宙にさまよわせた。
 男の名前は何と言ったか。
 六〇を過ぎたばかり、といった恰幅のいい、頭髪の薄い男が持ち出してきた提案は、他愛ないものだった。彼女の管轄海域に存在する海峡のひとつに通行税を設けたいので、その認可が欲しいというのだ。
 その海峡の名は、たしぎも覚えていた。
 狭く、流れも速く、大型船が通れるほどの深さもない。だが、速やかな交易の為にどうしてもそこを通らねばならぬ船は多く、従って事故も多い、という問題だらけの海峡である。
 その海峡の海幅を広げ、海底を掘るための工事を行う。資金源はいくつかの会社から融資を得たが、継続的に収入が必要であるため通行税を設置したいのだと男は言った。通行税自体は安かったし、工事をしてもらえるのもありがたいし、手続き自体に違法な点はない。
 反対の理由はなかった。問題もない、はずだった。
 ただ。
 「ちょっとトラブルがありまして……」
 日頃の彼女らしくもなく、語尾は小さく掠れて消えた。当時のことをありありと思い出す。応接室に通された客人たち。男と、書類を抱えた秘書、そして男の警護に当たっていた男。
 問題は、その男が連れていた用心棒だった。
 常に賞金首の情報に目を光らせているたしぎにとって、なじみの顔がそこにあった。賞金額は四〇〇〇万ベリーと、この海域では安い方であるものの未だに現役の海賊である男だ。
 (なんですか、この男は!)
 (……はあ? うちの用心棒がなにか……)
 (海賊を用心棒にするだなんて! あなたは何を考えているんですか!)
 (しかし、海の話は海賊に聞けと言うではありませんか)
 (なんてことを!)
 海賊とは海にいるものだが、たまに用心棒や商船の斡旋、口利きをすることもある。大概、資金不足からくる副業ではあるが、危険の多い海で略奪を行うよりよほど安全で実入りのいいこの仕事を、定職とする海賊も多かった。
 (しかし、大佐。海賊といえど、給料を払えばなかなかいい仕事をしますし、最近この海域では、やたら強い海賊剣士が頻繁に現れるというじゃありませんか。わたしみたいに何の力もない者は、用心棒を雇わないと不安で……)
 (つまりあなたは、海賊の活動に対し、資金援助していると言うことですね!)
 (いや、資金援助といいますか……)
 (許せません!!)
 男が用心棒を雇う。それに問題がある訳ではない。問題は、用心棒が海賊で、その海賊が日銭を貯め、また海に出て横暴を繰り返す、という点にある。
 「へえ、トラブル。で?」
 「それで、ええと、色々あって」
 事情は知らないだろうに、困っている彼女、という図式が面白いのか、ゾロは人の神経を逆撫でする形で口角を上げた。たしぎは完璧に楽しんでいる男から視線を逸らす。
 許せない、といってもまさか殺したり、投獄できるはずはない。ただ、“少しだけ”きつめの説教を“少しだけ”長めに行い、男の提案を“少しだけ”冷淡に突き返した。ただ、それだけだ。
 しかし、この男の意外に広い交友範囲が、すべての“少し”をより複雑にした。
 それから十日も経たないうちに、たしぎは海軍本部に呼び出され、謝罪と共に男の提案を受け入れるよう指示されることとなる。男の訴えを聞いた上層部が、たしぎの非を認めたのだ。
 (謝罪!? どうして、海賊の手先に謝罪などしなければいけないんですか!?)
 (君の気持ちも分かるが、これは政治的判断で……)
 (政治!? 我々が掲げるのは『正義』であって、政治ではありません!)
 (……大佐)
 (納得できません!!)
 そして、かつての上司から学んだ反骨精神が事態を更に混乱させた。二ヶ月にも及ぶやりとりの後、たしぎは任期半ばにしてこの地への転勤を命じられたのである。人手が足りない、とは思えない広大な基地へ。
 事実上の左遷。
 それは判っているが、プライドがそれを認めることを許さない。
 「少し頭を冷やした方がいいと思って、この場所を志願したんです」
 「……へえ、志願」
 嫌みっぽい口調に刺激され、彼女は男をまともに睨みつけた。
 「なにか、文句でも?」
 「あるわけねえだろ」
 ゾロは金網を掴んだまま、身体をたしぎの方に傾け、彼女が話す様を見つめている。実際、話を聞いているかどうかは判らない。聞いてるようで聞いてないし、聞いてないようで聞いているのだ。そう思ってよくよく観察すると、愛玩動物か何かを愛でるような視線とかち合う。やけに熱っぽいまなざしに晒され、不意に男を意識した。
 気がつけば、互いの吐息が混じり合うほど距離が近い。無視しようと思えば思うほど、鼓動が身体中を駆けめぐる。内心の動揺を押さえ込んで、たしぎはなんとか表情を変えないよう努力しながら、唾を飲み込んだ。
 「その口調は絶対に文句がある口調です」
 「そうか?」
 嘯きながら、空いた男の右手が彼女の手の位置から、顔の高さまで上がる。男が起こした風がむき出しになった肌の上を滑り、直に熱を感じた。ゾクリとする。触れるか触れないかの位置で揺れる、それの暖かさを敢えて無視し、自らの心音からも意識を逸らして、たしぎは言葉を強めた。
 「大体、あなたが……!」
 次の瞬間、ごく当たり前の調子で男の手が頬に伸びた。眼鏡を奪い取る。唐突に世界が滲む。焦点の合わなくなった視界の中で、男の顔だけが妙にくっきり見えた。近づいてくる。確信犯の得意げな余裕をひっさげて。
 「……な……」
 触れあった男の唇に言葉を喰われ、その先を続けることは出来なかった。
 驚きに目を見開く彼女の視界は、目を閉じたゾロの顔だけで満たされた。強く唇を押しつけられ、事態を飲み込むと同時にかっと身体が熱くなる。全身の産毛が一気に総毛立ち、今までとは違う類の汗が滲んだ。
 男からの口づけは大概の場合乱暴で、技巧や優しさもなく、このまま窒息死させられるか、あるいは噛み砕かれるのではないかなどといった心配が湧くことも多い。今回も今までと同様強引で、何の気遣いもなく、息をつけないほどに激しい。
 「……んっ!」
 止まない口づけに、抗議の意思を込めて男の胸を叩いた。
 ふと笑う気配がし、同時に男から力が抜ける。
 自然、口づけの種類が変わった。奪うものから包み込むものへ。求めるだけのものから、与えるものへ。触れた男の胸から速い心音が伝わり、彼女と男の鼓動を等しいものにしていく。安堵して、たしぎは肩から力を抜いた。
 そよ風に促され、目を閉じる。
 男の片手は金網にあり、反対の腕も下ろされたままだ。いつでも逃げ出せるようにか、距離を置き、ただ唇だけをむさぼるやり方は変わっていない。自分も敢えて、男の身体に触れるようなことはしない。
 互いを求めすぎない。
 それはルールのようなもの。
 どんなに互いにとって、互いの存在の意味が変わろうと、それだけは変えることができなかった。
 さざ波のように押し寄せる熱の中、男の舌が彼女を求める。ゆるく唇を開いて許せば、割り込んできた舌が丁寧に彼女の歯列をなぞり、唾液を混ぜ合わせ、舌を絡めてきた。徐々に激しくなる互いの呼気に、周囲の音が遠のく。断続的な快感が背を駆け抜けた。
 ついに立っていられなくて、彼女も傍らの金網を掴む。かしゃん、という乾いた鉄の音が、妙に刺激的に耳に響いた。男にとってもそうだったのか、更に口腔の奥へ舌が進む。自らもそれを求め、受け入れながら、たしぎは頭の中で自らの囁きを聞き、気づかれないように嗤った。
 こんな所を見つかったら、左遷どころじゃ済まされない。
 それなのに、どうして抗えないのか。
 初めて触れられた時からそうだった。
 強引に抱きしめられ、理由も判らないままキスされ、そしてそのまま逃げられた。いつもの通り。いつもとは違う形で。

  ──── またな。

 低い声音が、あれほど腹立たしかったことはない。
 また新たな嫌がらせなのだと思えば思うほど気になって、振り回されて、気がつけば囚われた。つくづく、海賊なんて質が悪い。こちらの事情もこちらの都合も全く無視して、領域に踏み込んできて胡座を掻いて座り込むのだ。
 そんな男に惚れるなんて、全く、どうしたことなんだろう。
 長い口づけの後、ようやく満足したのか。彼女を沈黙から解放して、ゾロはそれまでと何の違いもない、涼しげな顔でにやりと笑った。
 「俺が、なんだって?」
 熱を帯びた頬に片手を当て、たしぎは慌ててとぎれてしまった言葉の先を探す。そう、確かこの男に文句が言いたかったのだ。あのとき、男が言った台詞の一つが、彼女の心に引っかかった。反論の余地もなかったので、却って長く喉の奥で痛み、苛立たしかった台詞が。

 (やたら強い海賊剣士が頻繁に……)

 誰を指しているか判りすぎるほど判った。
 どうして頻繁に彼女の治める海域に現れるのか。
 どうしてなかなか海軍が捕まえられないのか。
 すべてを一瞬にして理解してしまい、余計に逆上してしまった。まるで、自分が責められている気がしたのだ。しかも今回に限り、その回答は当たらずとも遠からずである。
 それが一番痛い。
 つい、ゾロを見る目に恨みが籠もる。
 「あなたがわたしにさっさと捕まってくれてたら、こんな事態にはならなかったんです」
 「こっちだって首がかかってるんだ。そうそう捕まるわけにもいかんだろ」
 「それはそうですが、一度くらい……」
 飄々とした表情と共に顎を逸らし、男は片目だけでたしぎを一瞥した。
 「脱獄させてくれるのか?」
 「海軍の牢は鉄壁です!」
 「……お前、人を殺す気だろ」
 心底あきれながら、ゾロは右手を差し出してくる。掌には、きちんと畳まれた彼女の眼鏡。今のキスより何より、その行為が酷く艶めかしく感じられ、彼女は慌てて奪い返した。今まで以上に熱くなった頬を隠して、素早く眼鏡をかけ直す。
 そこで、本来真っ先に聞くべきだったことを思い出した。
 「ところで、何しに来たんですか?」
 「用がねえと来ちゃいけねえのか」
 「え?」
 「……お前に会いに来たんだ。」
 低い声音で言われ、たしぎはきょとんとする。
 「それは判ってますが、何しに?」
 「あ?」
 「用がなきゃ、会いに来ないでしょう?」
 「 ──── 」
 返答は、かなり長い沈黙だった。
 あれほど何事にも動じなかった男が憮然とし、視線を逸らす。ひどくうろたえているように見えた。気のせいか、頬に赤みまでさしている。ますます驚いた。何か、妙なことを言っただろうか。
 「なんですか?」
 「なんでもねえよ」
 がしがし頭を掻いて、口の中で何か呟く。「これだからこいつは」と言ってるように聞こえたが、意味が通じなかった。唐突に強い調子で咳払いし、ゾロは話を切り替えてくる。
 「それより、今暇か?」
 「暇じゃありません」
 何となく、今の会話の真相が知りたかったが諦めて、たしぎは肩をすくめた。時間はたっぷりある男と違い、彼女は仕事でここに来ている。時間など、あるはずない。それを証明するため指まで折って、すべきことを数え始めた。
 「ええと、休憩が終わってから素振りの練習の残りと、あとはランニング、また休憩を挟んで軽いゲームをする予定になってます。その後、お風呂と夕食。それから後は消灯の時間まで自由行動ですね。だから……」
 眼球だけ上向かせ、頭の中で計算する。
 「夜の九時くらいからだったら、一時間は」
 「ンなに待てるか。今から休め」
 有無を言わさぬ口調で腕を掴まれ、たしぎは急いで振り払った。
 「だから、無理です。いきなり来て何ですか。言っときますけど、わたしは任務中で仕事中なんです。『観光』中の海賊と一緒にしないでください」
 「……いうようになったな、てめえ」
 「当たり前です。第一、海賊に会うなんて知れたら上になんて言われるか……」
 そう、しかも訓練中だったのにすべて投げ出してここに来てしまった。それだけでも訓戒ものである。
 今更ながら、人がいないかたしぎは周囲を見渡した。好奇心を刺激された訓練生の可能性を一瞬考えたが、ほっとすることに誰も見あたらなかった。相変わらず、丈の長い草原が風になびき、波に似た軌跡を描いている。
 繊細な心などまるで持ち合わせていない男は、不満げに鼻を鳴らした。
 「窮屈なもんだな、海軍ってやつは」
 「海賊に落ちぶれるよりマシでしょう」
 「さっきから、海賊海賊うるせえな。ここには海賊もねえって聞いたぞ」
 「何処にいようが、何処まで行っても、海賊は海賊です」
 上司から受け継いだ教訓をきっぱり告げる。ゾロが押し黙ったので、僅かな勝利感に浸りながら、また自分の予定表を頭の中で広げた。
 「ですので、時間がとれたら連絡します。いま、どこに泊まっているんですか? そこを知らせてくれたら……」
 「 ──── そうか、わかった」
 音になるかならないか、ぎりぎりのところで告げられた低い呟きに違和感を覚え、たしぎは目線だけで男の姿を伺った。男は顎に手を当てて、何事かを考えているようだった。警告が背筋を走り抜ける。
 長年のつきあい、というか腐れ縁からくる勘、といえばいいのか。
 剣士としての勘、といえばいいのか。
 上司から叱られ続けた結果の勘、といえばいいのか。
 ともかく、その勘のすべてが男から不穏な空気を嗅ぎ取っていた。警告に従って、とっさに逃げようとした右腕が、間髪のところで捕らえられる。また振り払おうとしたが、今度は叶わず、金網に身体ごと押しつけられた。
 痛くはないが、それでも一瞬息が止まる。抗議しようとし、彼女は固まった。男の影が落ちかかり、目の前が暗くなる。
 顔を上げると、捕食者の顔が舌なめずりしていた。
 「てめえ、いま言ったよな。海賊は何処までいっても海賊だって」
 「い、いいましたが?」
 嫌な予感に背筋を撫でられつつ、頷く。
 返答は、世界最高額の凶悪な笑みだった。


 「だったら、海賊のやり方でやらせてもらおう」




 *****




 それからしばらくして。
 休憩時間が終わっても戻ってこない教官を、心配した生徒たちが探し始めた。しかし、何処を探してもその姿は見あたらず、時間ばかりが悪戯に過ぎていく。ついに夕刻を迎え、それでも帰らない教官に基地は騒然となった。
 さては事故に巻き込まれたか神隠しにあったのか迷子になったか拐かされたかと、海軍総出の探索が行われることになるのだが ──── 。


 それはまた別の話だ。









2へ→



 

<管理人のつぶやき>
海の幸・山の幸」のおはぎさんが、拙作の「愛のある島」を読んで感想メルをくださいました。ルナミでゾロたしというのが、おはぎさんの心にクリーンヒットしたようです(笑)。そして、なんとなんと!「ゾロたし別れ話編」を書きたいとのお申し出があり、ぜいぜひ書いてください〜ということに(^.^)。

ご覧のように、ゾロナミストさんにはちとツライのでは?でもそれはすなわち、それだけゾロたしSSとして最高だということ・・・。
さて、ゾロはどんな風に話を切り出し、そして二人はどんな風に別れていくのでしょうか?続き、すごく気になります!!

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