砂の城 −2−
おはぎ 様
「……何、考えてるの?」
問われたちょうどその時考えていたことを、腕の中の女にだけは知られたくなくて、男は憮然としたまま返答しなかった。互いが共有していた熱はとうに冷め、今は触れあう肌の心地よさより、進んでいく時の方が気になる時間帯だ。
男は女の頭の下にあった腕を抜き取って、そのまま反対の方に身体を反転させた。
「 ──── ゾロ?」
「……何でもねえよ」
「変なの」
女は僅かにためらったようであったが、そっと男の背中に手を滑らせる。彼の皮膚より僅かに冷たい掌が、何故か無性に苛立たしかった。身を少しだけ移動させ、冷たさから逃れる。女の手はそれ以上追ってこなかった。
「今日、海軍がいたわね」
「……そうだな」
「会ったの?」
誰に、とは言われなかった。主語など始めから無いのかも知れない。ただ、黒髪が脳裏を過ぎり、歯ぎしりに近い声が漏れた。
「会ってねえよ。誰にも」
嘘ではない。
ただ、目撃してしまっただけだ。
海軍は水と食料の補給に港に立ち寄り、そこで船のチェックを行っていた。ある者は豊富にある水で甲板の掃除を行い、ある者は船底に貼り付いたコケや貝の類をヘラでこそぎ落としていく。またある者は、船にたまったゴミを捨てにいく。
その平和で、騒々しい、何処にでも在るような場面に足を止めたのはなぜだったのか。
理由も判らないまま、視線は既に一人の女を捕らえていた。
樽の間を彷徨いつつ、数を数え、紙に書き込んでいる女。どうみても要領悪い手つきで、野菜の鮮度を確かめている女。船のゴミの中に自分が無くした書類を見つけ、あわてふためいている女。部下にたしなめられ、謝っている女。気合いを入れ直している女。笑っている女。働いている女……。
生き生きした女の姿をどれくらい眺めていたことだろう。
ふと我に返り、彼は苦笑して立ち去った。
なんてことはない。ただ、幼なじみが生きているかのような幻想をその姿に見ていた。ただ、それだけだ。その顔がこちらを向き、親しみのこもった笑みで手を振る。そんな幻を見ていただけだ。……そう、多分。
ただ、それだけのことなのだ。
そして、ただそれだけのことが胸の奥に引っかかり、抜けない棘となっていつまでも疼いている。かさぶたを触っては傷の深さを確かめたがる子供みたいに、彼は女の記憶を弄んでは収まりきらぬ感情に煩悶していた。
「 ──── そう」
女はそれきり黙り込み、ゆっくり身を起こす。衣服をつけ始める気配に安堵し、彼も続いた。女は何も聞かない。附せられた睫が何かを堪えて細かく震え、細い肩が酷く白く頼りなげに揺らいだが、言葉が発せられることはなかった。
それは女の優しさなのか、諦めなのか、それとも。
「……ナミ」
裸の胸を掻きながら名を呼ぶと、頭目がけてぽんと服が放られる。一瞬、視界がとぎれた。服を取り去った後の女は、平生と変わらぬ顔のまま。呆れたように片頬だけで笑って見せた。
「ほら、早く服を着て。いい加減戻った方がいいわ」
「 ──── ああ」
言いたいことはあった。
多分、言った方がいいことも山のようにあっただろう。
ただ彼はいつものように何も言えず、ただ黙って頭から服を着た。女の視線がそれを追う。この話題が彼らの間に出ると、いつもそうするように、彼はなるべく時間をかけて服を着た。きつく目を閉じ、何も見ないで済むように。
それは男の弱さなのか、気遣いなのか、それとも……。
「そういえば、ルフィがね」
何を思い出したのか、女はくすくす笑う。彼はやっと顔を上げた。
「新しい台詞を覚えたわよ。サンジくんにでも習ったのかしら」
「……へえ、なんて」
「『お前は俺の太陽だ』」
「 ──── 最悪だな」
「まったくね」
頷きながら、女は笑う。最近、彼の前で笑うことがとみに少なくなった女は、それでもルフィの前ではよく笑った。日増しにその笑みが輝きを増し、一枚ずつ重い皮を脱ぎ捨てるように綺麗になっていることに、彼は改めて気づく。
自然、腕が伸び、女の背を引き寄せた。
「……何?」
「俺の前でルフィの話はあんま、すんな」
「何それ。……ヤキモチ?」
「うるせえ」
肩越しに腕を伸ばし、顎を上向かせた。女は素直にそれに従う。触れあう唇の感触に酔いながらも、彼は一瞬きつく目を閉じ直した。あけすけに愛を語る男のことを考える。
例えば、あの男なら。
女への愛を率直に誇る、あの男なら。
このようなことを考えたりはしないだろう。
────
ここでもし目を開ければ、別の女の顔が見えるのではないか。
などということは。
「ゾロ?」
「……。何でもねえよ」
彼は努力して笑う。女の瞳にまた深く、不安という名の傷が刻まれる。
その傷の数を数えることを、彼はとうの昔に放棄していた。
*****
(ねえ、ゾロ。知ってる?)
女がそれを言い出したのは、いつの頃だったか。
寝物語だったか、日が燦々と降り注ぐ甲板の上でだったか、そんなことは覚えていなかった。ただ、頭をもたげ女を見た。それは覚えている。
女は、今まで見たことないほど真剣で且つ寂しげな眼で、両手を広げて見せた。
*****
「ロロノア ──── !」
大音声で呼ばわる声に、彼は顔を上げ盛大に舌打ちする。くるりと反転し、いつもの通り逃げ出した。どうして逃げるのかという何度目かの問いに、お前に抜く刀など無いと例によって叫び返す。
後はただ、追いつ追われつ。
袋小路に迷い込んだのは、単なる不運だった。
「やっと追いつめました」
きびすを返したところで、ただ一人彼を追ってきた女に退路を阻まれた。
「偶然だろ。威張るな」
「刀を抜きなさい」
「だから、てめえに抜く刀なんぞねえよ」
「 ────
だったら、抜かせるまでです!」
素早く繰り出された刀を避ける。最近、女の刀は鋭さを増していた。刀を使わないと危うい場面も正直、ある。それでも刀を抜かないのは、女を馬鹿にするためだと女は言う。それは違うと、心が応える。
どう違うのか、なぜ違うのか、説明できた試しは無かったが。
幾度目かの軌跡をやり過ごし、刀を握る手を上から捕らえた。そうしてしまえば、所詮女の力だ。彼に敵うはずなど無い。彼の腕に噛みつこうとさえしてくるのを、逆の手で引き剥がした。
それがどれほど女にとって侮辱的なことであるか、よくよく承知してはいるが、更に力を込め、刀を女の手から揺すり落とす。涼しげな金属音が二人の間に落ち、幾度もそうであったように女は再び無力に帰った。事のついでに刀を蹴り飛ばし、容易に手の届かない位置に追いやる。
きつく睨まれて、くっと喉を鳴らした。
「ンな危ねえもん、振り回すなよ」
「離しなさい!」
「勘弁してくれ。怪我でもしたらどうする」
不敵に笑いながら、女を突き飛ばして逃げ出す。
否。
逃げようとしたところで、彼はふとすべての動きを止めた。
違和感を感じた。
掌が、酷く熱い。
女の手を掴んだ場所が焼け付く。
身体中に張り巡らされた神経が、焼け付く掌、ただ一点に集中していた。そこから受ける刺激を子細漏らさず自らの中に取り込もうと、過剰な反応を示す。電流に似たしびれが掌の神経細胞を伝わり、身体を芯から侵していった。僅かに指を滑らせ、初めて理解する。
女は今日に限って、手袋をしてない。
そしてまた気づく。
自分の胸に女の肩を押しつけ、もう片方をきつく掴んでいる事実を。女がそれ以上暴れることがないよう、足を絡ませている事実を。
──── ドクン。
心臓が、ひとつ大きく脈打った。
周囲から音が遠のき、自らの心音で世界は満たされる。
理由もなく、かつて見た女の姿が頭を過ぎった。仲間と笑い合い、信じられない話を聞いて目を丸くし、また笑い、暢気に休憩している姿。彼の前では決して見せない、闊達な姿。その横顔が彼に気づき、嬉しそうに微笑む幻覚。胸の奥が、ちりりと灼けた。
もう少しだけ指を動かすと、固く握りしめられた甲の関節に当たる。人差し指でゆっくりなぞった。初めて知る、女の手の形。初めて知る、温度。触感。大きさ。柔らかさ。そして、匂い。女の匂い。
湿った掌が伝える女の情報は、うねりながら彼の中を荒らす。生身で繋がれた、ただ一点から火が点り、彼の神経をじわじわと焦がしていく。一呼吸ごと、それは確実に延焼し彼の心を崩していった。彼を狂わせ、理性の形を無くさせる。
その炎には煙など無く、女は気づかない。どれほど危うい場所に己がいるのか、判っていない。ただ、何とかして拘束から逃れようともがくだけだ。
抵抗が更に焦燥を加速させる。
あれほど苛立たしく、あれほど叩きつぶしてしまいたく、憎まれ、心底嫌われ、だのに追われ続け、存在さえ許せなかったもの。いつでも彼の意識に侵食し、彼の感覚を研ぎ澄まさせ、彼からそれまで持っていた何かを奪い去っていったもの。
────
その者の、あまりに滑らかな肌膚が今、手の中にある。
次から次へと顕されるリアルな女の姿は、幼なじみに似ても似つかなかった。それを意外だと思う自分はいない。この時になってようやく気づく。同時に、不安を告げるナミの瞳を思った。そう、彼女はいつだって正しい。正しすぎる。
彼は既に、女の中に幼なじみの影を重ねてはいなかった。
「……ロロノア?」
いつまでも動かない男に何かを感じ取ったのか、女は顔を上げる。嵐の色に似た虹彩が、彼を映して瞬いた。彼の姿を閉じこめてまた開かれる瞳に、酷く艶めかしい欲望を感じる。もはや取り返しがつかないほど身体は熱く、喉はからからに乾いていた。
首筋から、じわりと汗が湧く。
必要以上の音を立てて、空唾を飲み込んだ。
(ああ……)
目眩が、する。
────
気がついたとき、彼は女をきつく抱きしめ、その唇にむさぼっていた。
*****
(不安定な船とか、揺れる吊り橋とか、戦場とかで出会った男女はね、恋に落ちる確率が高いんですって)
(……へえ)
何故、女がそんなことを言い出したか判らぬまま、相づちを打つ。女はまた、儚い風情を漂わせ俯く。
(身体が先に恋するの)
*****
「やめてって言ってるでしょっ!!」
──── バンッ!
不意に、冷ややかなものが頬に打ち据えられた。
はっと息を呑む。
まなざしを上げれば、その先に慣れたはずの女の顔があった。振り切った右手を頬の横にかざし、彼を睨みつけている。オレンジの髪を乱し、荒く息をつき、少しでも彼から距離を置こうと、後ずさりしている。
そこに縁取られたのは、怒りと恐怖と、それ以上の哀しみだ。
「……ナミ」
ようやく思い出す。
あれから、冷め切らぬ身体を抱えたまま船に逃げ帰った。じりじりと夜を待ち、女部屋の扉を叩いた。乗り気でない女を無理矢理壁に押しつけて、唇を奪った。嫌がって彼の胸に打ち付けられる拳も気にせずに、寝台に抱え上げた。
──── その、結末。
女は赤くなった掌を片手で押さえ、胸の前で組んだ。女の服は彼の手で裂かれ、見るも無惨な様相を呈している。どうして、いつの間にそんなことになったのか、彼は何一つ覚えていなかった。今までも多少強引な時はあったが、ここまできっぱり拒絶されたのは初めてだった。
二人きりでいた以上、犯人は自分以外になく、よくよく考えれば手が感触を覚えいてるような気もする。ただ、それ以上のことは何一つ自信がもてない。なぜなら、彼は考え中だったからだ。女の身体で頭を冷やし、別の女の匂いを消しながら、何かを考えようとしていたからだ。
何かを。
「……ゾロ。今、誰のこと考えてた?」
痛みにきしむ声。
「わたしのこと、ちょっとでも考えてた?」
「ナミ……」
「答えてよ」
「……俺は」
「答えなさいよ!!」
鋭く叫び、女はぴしゃりと目を閉じた。弾みで、涙がこぼれ、女の掌に滴をつくる。
不意に、心臓が爆発的に早く鼓動を打ち始めた。夜の海に一人投げ出されたような心地と共に、ようやく自分が何をしたか理解した。
彼の中に正気は戻ったが、鼓動は止まない。
これは崩壊の音だ。
今まで二人が見なかった振りをしていた傷が決壊し、崩れていく音だ。
「……悪ぃ」
低く呟く。
泣いている女は目の前で、その涙を拭ってやりたいと思うのに、身体が動かなかった。体温を感じるほどに近い二人の距離が、こんなにも
──── 遠い。
「……もう。やめよう、ゾロ」
涙に縁取られた女の目が、一層彼の心を抉る。
「続けられない」
女の頬に、酷く綺麗な涙がもう一粒落ちた。女の指が前髪をかき上げ、後ろに梳く。さらさらと流れるオレンジの光を、綺麗だと思った。遠い景色に感嘆の息を漏らすような美しさは、鋭く尖った雪の結晶となって、彼の中へ沈み込んでいく。
女はそれ以上泣かず、微かに自嘲した。諦めの笑みだった。
「もう、疲れちゃった」
「……。そうか」
おそらくこの夜、女を一番傷つけたのは。
強引に抱こうとしたことではなく。
他の女のことを考えていたことでもなく。
「 ──── わかった」
なんの反論もせず、その提案を受け入れてしまったことだったろう。
*****
(揺れる所に立っていると、ドキドキするでしょ。それを身体が勝手に、恋だと思いこむわけ)
(ふうん)
(そういう恋は、長続きしないんだってさ)
自分たちのことだろうかと、ふと思った。自分たちの関係を女が不安に感じているのだろうと。そう思ったが、理由が判らなかった。その時、彼の中に不安を呼ぶ要素は何一つなかったはずなので。
ただ、その前日、彼はいつものように海軍に追われていた。それを話して聞かせただけだったので。
*****
半年以上、女とは会わなかった。
海軍とは会ったが別組織であったり、彼らを追い続ける軍と会っても、船影を見ただけで即座に逃走し、直接会うことはなかった。それでも、陸につくたびに姿を探した。いないと判るとほっとした。ほっとしつつ、最後に会った光景が過ぎる。
( ──── またな)
それは、あのとき自分で言った言葉だ。
女がほぼ同じ意味のことを言うのは毎度のことである。だが、彼の方から言ったことはなかった。いつも彼が言うのは、来るな、とか、もう帰れ、とかいう否定的な言葉だけだ。一番多いのは何も言わず、逃げ出すことだったろう。
( ──── またな)
女が男に会うのは必然。
男が女に会うのは単なる偶然だ。今まではそうだった。
しかし、いつも続けていた関係はこの一言で変わる。彼の方から再会を期待するということは、追ってくる女の存在を受け入れたことである。女に会い続ける運命を、彼も受け入れたことである。
例えば、名も判らぬ街に下り、嵐が近くなった雑踏を歩き回り、
「ロロノア・ゾロ……!」
その凛と響く声音を待ち望むことである。
顔を上げて、男は名を呼んだ女の姿を黒雲の下に認めた。
海軍はいないという話だった。自分も見渡したが、それらしい影も感じなかった。隠れ方が巧くなったらしいと小さく舌打ちする。逃げようかと左右を見渡したが、生憎袋小路だ。女が立っている場所以外に逃げ道はない。
何処かで見たことある構図だと、心が呟く。こめかみが酷く痛んだ。その頬に、ぽつりと雨が落ちる。
「久しぶりだな」
「……そうですね」
男は手にしていた、扉の取っ手を離した。
安くて美味そうな酒場を求めて、それらしいところを彷徨っているうちに道に迷った。周りは空き屋だらけで、階段が多い。唯一扉が閉まっていた部屋を目指して階段を下り、取っ手に手をかけたところで声をかけられた。
女の姿を捕らえ続ける彼の耳に、扉が倒れた音が響く。どうやら、そこも廃墟だったようだ。人影は無かった。
「ここは、何十年も前に街自体を潰したそうですよ」
「……そうか」
「新しい街はもう少し、東にあります」
「ご親切に、どうも」
揶揄する響きを込めた口調だったが、それでも女は律儀に一度頭を下げて見せた。感謝の言葉に対する返礼のつもりだろう。場違いではあるが、少々可笑しかった。
階段を一歩上がる。石畳に足音が響いた。乾いた足下に、血飛沫に似た雨が落ちていく。女は動かず、刀も抜かずそれをみていた。
「ところで。何の用だ」
「用など、決まってます」
「なら、どうして抜かない?」
「……先に、知らせがあります」
もう一歩踏み出したところで、女の手からチラシが落ちる。足下に流れてきたそれを拾った。めくったそこには、見慣れたオレンジの髪が笑っている。満面の笑みの上に雨粒が滲み、重くなった。
「ナミ?」
「彼女にも、賞金がかかりました」
確かにそれは賞金首のリストで、大写りの写真の下には特別太い字で『生きたままで』との注釈が入っている。指名手配のチラシにしては、異例だ。
「生きたまま……ねえ。何でだ?」
「我々の『眼』が彼女の知識を求めているんです」
顔を上げたが、視線を逸らし、女はそれ以上何の説明も加えなかった。仕方なく、もう一歩近づいて、話題を探す。始め、時折腕に当たる程度だった雨粒は次第に数を増してきた。視線の先では、灰色に煙る景色に銀線が張り巡らされている。
「用は済んだか?」
返答はなく、女はただ刀の柄に手をかけた。腰を低くし、猫が獲物に襲いかかる一瞬前の緊迫感で、体勢を整える。瞳が鋭さを増し、呼気が低く落ち着く。殺気が女の周りに満ち、目に見えるようでさえあった。
はっきり判る。今の女は半年前とは違う。多分、もう刀無しで渡り合うことは出来ない。
「精進してるようだな」
「……ええ。あなたが逃げ回っている間に」
もう一歩階段を上ると、女との距離はかなり近づいた。刀を今抜かれると、剣先が届く距離だ。地面は濡れ始め、足場が悪い。明らかにこちらが不利だ。だが、焦る気持ちは生まれなかった。雨を昇華させるほどの熱なら、うなじに痛いほど感じていたが。
「なぜ、俺を追い回す?」
「望むものを、手に入れるためです」
黒灰色の瞳が瞬きをして、こちらを見返した。更に一歩近づくと、目の高さがほぼ並んだ。腕を伸ばすとふれあえる距離。女は目を逸らさない。男も目を逸らさなかった。逸らしたら負けだと思った。
刀を使わない勝負は既に始まっていて、男と女を巻き込みその世界を完成させている。ただ、雨だけが場に入り込み、二人を濡らした。
「あなたはなぜ、抜かないのです?」
「 ────
望むものを、手に入れないためだ」
「それは……、何です?」
雨は、徐々に激しさを強めていた。
男の髪も女の服も濡れて身体にからみつき、それでも吸収し切れぬ雨水が身体を伝って落ちていく。女の髪を伝い、男の首筋を流れ、女の身体を描き、男の足下に溶けていく。
女が問いと共に吐きだした吐息が彼のそれに絡み、雨に打たれ、どこか判らぬ処へ流れて消えた。吐息に含まれた粒子と雨粒の擦れ合う音さえ聞こえるような沈黙の後、彼は口角を僅かに上げた。
「……なんだろうな」
「自分の望みも、判らないのですか?」
女が顎をもたげ、尋ねてきたことで、彼は今女と同じ高さに立っていることを知った。階段を登りきったところで向かい合い、互いが相手に近づき得る精一杯の距離を保ち、見つめ合っている。濡れた黒髪から新たな水が滴り、女の唇で跳ねて落ちた。
ふと、女の唇の味が口腔に蘇った。何ヶ月も前のことなのに、たった今、それに触れたように鮮やかに。体内の熱に侵されて乾ききった喉を、雨水で潤す。到底足りないであろうことは、始めから承知していたが。
「 ──── そうだな。判んねえ」
「……」
「お前は、そうじゃないのか?」
時間をかけて、腕を持ち上げた。女は逃げずにその軌跡を眺めている。じりじりと、自らの欲望をわざと焦らすように、あるいは、己の熱を雨で冷ますように己の顔の高さまで腕を上げ、また倍以上の時間で女の頭頂部に掌を持っていく。
女に触れるはずだった雨が、手の甲を叩く。
指を折って、女の髪に触れた。女はぴくりと身体を痙攣させたが、逃げなかった。そのまま刀を抜けば、男に致命傷を負わせられるはずなのに、柄に手をかけたまま動かない。
黒髪を一房つまんで、指で撫でる。まっすぐの、固い髪質だ。知っている女のそれは柔らかかった。当たり前のことだが、目の前の女とは明らかに違う。現れた耳の形を、指の腹で辿った。また、女が反応を示し、短く息を呑む。指先に触れる鼓動は速い。耳の脈が聞こえるはずなどないから、多分、自分の心音であろうが。
女の肩はこわばっていた。どれほど緊張しているか、一見しただけで知れる。己の自尊心のために、あるいは他の理由からか、身体を叱咤して留まっているのだ。
足先を少し水平にずらして女に近づき、見下ろす位置に立った。近づくと、ブラウスが水を含んで張り付き、下の色を顕わにしているのが判る。目を奪われた。
「お前も、自分の望みが判らねえことはないのか?」
「 ──── ありません」
風に近い吐息の語尾は掠れ、雨の中はっきりと女の偽りを告げる。
「……そうか」
首筋に指を滑らせると、また女は身をすくめた。何かを堪えるように、下唇を噛む。今度は幻でなく、女の鼓動が聞こえた。掌から伝わる脈は、彼と同じに速い。彼を見据える黒灰色の瞳は相変わらず固かったが、その奥に、今までとは違う色が見えた気がした。
己の身の内にある炎が、同じ色で女の中に揺らめく。
雨は、天と地とを透明な糸でもって縫いつけようとするかの如くに降り続いていた。
こめかみから脳髄にかけて、強烈な痛みが走る。狂おしいほどの欲望が彼を駆り立てていた。女の中に、女自身の姿を認め、その女を求めている。憎しみと取り違えるほどに、強く、激しく。
この感情は殺意なのか。
それとも単なる肉欲か。
戦いの高揚感なのか。
それとも ──── 。
(砂上の楼閣)
何処かで聞いたことのあるフレーズがふと、頭を過ぎった。
誰かから聞いた気もしたが、とっさには思い出せない。ただ、琥珀の瞳が脳裏をかすめた。
『触れてしまうと、終わり』
そのつぶやきを聞きながら触れた頬は、酷く。
雨を透過し、病んだように、酷く。
酷く…… 、熱かった。
「 ──── もう、帰れ」
「帰りません」
女は静寂を形に変えつつ、刀を抜いた。自然、男の手は女から離れ、自分の刀の柄に戻っていく。いつでも動けるように、半歩片足を引いた。
「これが、わたしの望みです」
無数の雨粒に叩かれながら、剣先が鋭く光る。
逃げることなど、出来なかった。
「……判った」
そして、彼も刀を抜く。
剣戟は、初めての時よりもずっと長く
──── 。
四本の刀が地に投げ出された後、彼らは目を閉じることさえ出来ず、互いの身体に溺れた。
*****
(幻の、恋よね)
( ──── 幻か?)
低く問い返すと、女は微笑って頷いた。
(砂上の楼閣よ。安全な所に戻ると全部消えてしまうの。全部ね)
その時、彼が感じてもいなかった亀裂の臭いを、女が嗅ぎ取っていたのだと知る頃には、すべてが遅すぎた。
(触れてしまうと、終わりなの)
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