砂の城 −3−
おはぎ 様
とん、と目の前に置かれた酒瓶を見つめ、しばししてから男は視線を上げた。今は仲間に戻った女が、悪戯っぽい調子で笑っている。
「どうしたの?」
「そりゃ、こっちの台詞だ。どうした?」
「それこそ、こっちの台詞よ。何か、話でもあるんじゃない?」
顎の剃り損ねた髭を引っ張りながら、考え込む。心当たりはなかった。
「いや、別にねえが」
「馬鹿いっちゃって。この二日間の自分の様子を、客観的に見ることも出来ないわけ? 食欲もないし、口数も減ってるし、何より……」
びっと音を立てて、彼の眉間に指を突きつける。
「昼寝をしてない!」
「喧嘩売ってんのか、てめえ」
「売ってもいいけど、高いわよ」
「……」
あっさりいなされて、憮然と黙り込む。女は声を立てて笑い、彼の前の椅子を引いた。手にはしっかり二人分のコップと追加の瓶が握られている。どうやら、本格的に呑むつもりらしい。ポンと小気味よく栓が開き、更に美味そうな音が機関室に響く。杯に満ちる。
「だから、わたしが話につき合ってあげようって言ってるんじゃない。親切でしょ?」
「ああ、親切すぎて気味が悪い」
女はカラカラ笑って腕を伸ばし、肩を叩いてきた。必要以上に痛くて、顔をしかめる。一つ二つ文句でも言ってやろうかと口唇を開いたあたりで、美酒の芳香に惑わされた。黙って受け取り、苦情と一緒に飲み干す。
「……で、どうしたの?」
女が口火を切ったのは、一本目を空けた辺りだった。
何でもない、と誤魔化せるほど嘘は得手でなく、女はそれを見破るのが巧い。仕方なく、酒瓶に手を伸ばし、栓を空けることで場を繋いだ。女は組んだ足の上で、指を遊ばせながら考え込んでいる。
「船に問題が……、あるわけないわよね。賞金首の話? 思いの外、わたしに高値がついたんで、灼いてるわけ? 羨ましかった?」
「何でそういう妙な対抗意識を燃やすんだ、お前は」
「じゃ、話は決まり。あのチラシが原因ね」
「……」
「 ────
『彼女』と、何かあった?」
今までの明るい声音から、女は数段トーンを落とす。それだけで、女の中に未だ残っている傷跡が見えるような気がした。
『彼女』。
いつの頃からか、彼らの間はそれだけで通じるようになっていた。それ故に傷は深く、どれほどの年月をかけようと完璧に無くなることはないように思える。
酒を二つの杯に注ぎ、口を付けた。
「……別に」
「あったのね」
断言され、目を伏せる。いつだって、女に隠し事は出来なかった。ただ、今までの隠し事とは違い、今回のそれはどう考えたって女には言えない。女はそれさえも感じ取ったのか、探るような視線で伺っていた表情をふと消し、琥珀の瞳に動揺のさざ波を起こした。
それが顔全体に広がる前に、女は顔を伏せ、指先でグラスの縁を辿る。キィ、と甲高い音が夜の部屋を貫いて、何処かに消えた。お互い黙りこくって、酒を飲み干す。酒を注がれ、注ぎ返しながら、彼は気鬱の原因を思い起こした。
全く。いつだってこの女は正しい。
────
互いの中で吹きすさんでいた嵐が止んだ後。
まず身じろぎしたのは女だった。
急に自分が誰の腕の中にいるのか思い出したように、離れようとする。反射的にそれを押しとどめ、すぐいかに虚しい行為かということに気づいて力を抜いた。女は腕の中から躊躇なく抜け出して、俯いたまま衣服を整え始める。
そして、刀を拾い、立ち去った。
一言も喋らず、目も合わせず、足早に消えた。
もっとも彼も、女の方を向けなかったから同じことだろうが。
ただ、遠のいていく足音がいつまでも耳の奥で鳴り続け、彼の気管を塞いでいた。想像の世界で去っていく女の背は、今まで見たこと無いほど華奢で、力無く、刀を持ち続けていることが奇跡のように、儚く頼りない。
想像だと言い聞かせながら、気づけば女の事ばかり考えていた。
女は、彼を嫌悪しているだろうか。
それとも、自分自身を嫌悪しているだろうか。
触れてはならないものに触れてしまった報いは、どちらに降りかかるのだろう。
答えのない問いは、体腔に木霊だけを残す。
判っていることといえば、もう二度と女とは会えまいという事実だけだ。女が持つ確固たる正義感が、それを許しはしないだろう。一時は共有した熱も、身体も、離れてしまえばすべてが朧で、唯一、事実だけが彼の前に厳然と立ちふさがっている。
それを清々したと言うべきか、残念だと言うべきか。それさえも判然としなかった。
追われずに済むなら清々したと言いたいが、言おうと思えば、女が抜け出した腕が妙に涼しい。しかし、残念だというほど、それでも会いたいと言えるほど、強い想いを彼は女に持っていない。否、持てない。
それは、女が親友に似ているせいなのか。それとも、海軍だからなのか。
あらゆる種類の問いだけが、次から次へと生まれては彼の中に蓄積していった。畢竟、彼は自らの思念を持てあまし、眠ることもままならないでいる。
松ヤニ臭の残る酒を半ばまで呑みながら、自らを嘲る調子で笑った。
「お前の方が、よっぽどいい女なのにな」
「当たり前じゃない。今更気づいても、遅いのよ」
「全くだ」
瓶を眺めつつ笑う。
……暖かな時間だった。
別れたばかりのあの頃は、姿を見ることもつらかった。こうやって、また差し向かいで酒を飲める日が来るなんて、思いもしなかった。飲み始めるとまた、こんなに気心が知れ、くつろげる相手がいることに驚く。
思えば、かなり貴重な相手と時を重ねたものだ。
あの女とはこんな時間を望むことさえ、難しいというのに。
「 ──── なんでだろうな」
ぽつりと呟いた。
それは、どうしてその繋がりを自ら絶ってしまったかということであり。
どうして、よりにもよって一番困難な相手を選んでしまったかということでもある。
船の揺れにあわせて、酒瓶の中も緩やかに波打っていた。女は目を閉じて、己の肩や首筋をほぐし始める。彼の問いが聞こえなかったのかと思うほどの長い時を置いて、一度ぐるりと頭を廻して、やっと決意したかのように唇を開いた。
「ゾロ。わたし、ルフィとつき合うことにするわ」
その申し出は、意外極まりない。
「……は?」
「前々から口説かれてるし、ま、ここらで手を打ってあげてもいい頃かと思って」
「そりゃ……、まあ、お前の自由だしな」
いささか鼻白みながら、頷く。話を聞くとか言いながら、結局自分の話を報告したかっただけだったのだろうか。考えてみれば、最近、ルフィは余り五月蠅く女にまとわりつかなくなっていた。まさか厭きたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
釣りと同じだ。ある程度まで獲物が近づいてきたら、強く引くよりむしろ、時間をかけた方がいい。そういうことだったのだろう。肘をつく男の前で、女は軽く机を叩き注意を喚起した。
「で、どう思った?」
「……は?」
彼の口からは再び、間抜けな単音が唇から漏れた。顔を上げると、再び明るい、茶目っ気たっぷりの表情で首を傾けてくる。
「わたしがそう言うの聞いて、どう思った?」
「……なんだ。冗談か」
「まさか、本当よ。で、どう思った?」
いよいよ冗談か本気か判らない口調で断言され、困惑した。目線から言って、問いをはぐらかすのは許さないらしい。仕方なく、天井を見上げ、あーともうーともつかないうめき声を発した。
「そりゃ、まあ、ショックだな」
額に腕を載せ、言葉を考える。
「逃した魚は大きかったな、と思ったし」
姿勢を元に戻し、腕をだらりと下げ、苦笑した。
「今度、ルフィのヤツを海に落としてやる、とかも考えた」
「殺さないでよ、うちで一番高く売れる男を」
「了解。一時間で引き上げてやるさ」
「上出来」
にんまり悪巧みの笑顔で笑い合う。
そして女は、まなざしだけを柔らかいものに切り替えた。
「ねえ、ゾロ。もし、もしもよ。『彼女』が、同じようなことを言い出したらどうする?」
「……同じ?」
「好きな人が出来たから、もうあなたのことなんて追わない、って言われたら?」
「そんなことは……」
「もし、あったらどうする?」
ついた肘に顎を乗せ、その台詞がそのまま、あの女の唇から漏れるところを想像する。ありえない、と思っていたことであったが、目を閉じるとすんなりその様が思い浮かんだ。女が語って見せたような話はないにしろ、似たようなことを彼も考えていたせいだろう。
妙にさっぱりした笑みを浮かべ、刀も持たず彼の前に姿を見せる女。
もう二度と、彼を追わないと告げる女。
(お前の夢は、刀を集めることじゃなかったのか?)
(諦めました。だからもう、いいんです)
想像した笑みは、楽しげで幸せそうに輝いて見えた。
(あなたが何処で何をしようが、もうわたしには関係ありません)
想像をうち消すために、彼は目を開いた。船にいる自分を確認し、苦く笑う。ただの一瞬で去来した想いに、笑うしかなかった。彼の心を見透かそうとする瞳を避けて、また酒を飲む。なるべく平穏な言葉を、舌先で探した。
「そうだな。そしたら、多分俺は……」
そっと、唇が指で押さえられ、言葉を途切れさせる。
顔を上げると、彼の唇を押さえたまま、困った顔して女は眉根を広げた。
「それが、わたしと『彼女』の違い」
「 ──── 」
「その続きは、『彼女』に聞かせてあげなさい」
女には、判っているのだ。
彼が何を考えたのか理解し、受け入れて、背を押してくれているのだ。
「ナミ……」
「ただし、船はログがたまり次第出すわよ。夜明けにはね」
再び、行って来いと囁いて離れる女の手を、自然、手に取る。
その手は記憶のままに、小さかった。
所々インクで黒く汚れ、ペンだこが固く盛り上がっている。貴重な手だ。世界の大半を描き、船を操り、仲間を殴り飛ばし、力づけ、助け起こし、無茶をして、そして、何もかもを包み込んでくれる。
今その手は、彼のためでなく、綺麗なマニキュアが塗られ、整えられていた。自分の時もそうだったろうかと思ったが、思い出せなかった。そこまで熱心に女を見たことはなかった。ただ、側にいるだけで、意を察してくれるだけでありがたかったので。
女は嫌がる風でもなく、彼の好きに任せていた。そっと両手で包み込むと、暖かさがじんわり胸に染みる。
愛してる、というのなら、彼は何よりこの女を愛していた。
大切にしたい、というのなら、彼はこの女以上に大切な人を持ったことはなかった。
それは今までもそうであったし、これからもそうであろう。
ただ、もうその手を掴んでも、彼は親愛以上の感情を持てない。二人の立ち位置が今までより少しだけ形を変えてしまった。改めて、その事実を知る。
顔を上げると、鏡に映したように彼の意思を読みとり、穏やかに親愛と友情に満ちた琥珀の瞳が彼を捉えていた。しっかり視線を合わせ、彼は胸の中にあるすべての感情をただ一言に乗せて呟く。
「……幸せにな」
「そっちこそ」
その微笑みの綺麗さを、彼は生涯忘れない。
────
多分この瞬間、二人の関係は本当に終わったのだ。
それ以上何も言わず、女は彼の手から自分のそれを抜き取る。
自分のグラスを片づけて、女は去っていく。何処に行くのかと聞いたら、海軍の施設に潜り込む準備をするのだと片目をつぶる。全員をたたき起こして行くから、覚悟しろと言われ、苦情を言い募る前に扉は閉まる。
仕方なく席に戻り、彼は一人息をついた。
もう何も無くなった手を、強く握ってみる。
何色とも付けがたい風がそこから吹き、少しだけ彼を涙ぐませた。
*****
(続くこともあるだろ?)
(……そうかしら?)
(ずっと、揺れるところに立ってりゃいい)
女は唇だけで笑ってみせた。
(いつか、綱が切れるまで? ……素敵ね)
その声音は冗談に紛らすには余りに切なく、憧憬と哀切に満ちていて、彼は語る言葉を無くした。
(……本当に)
*****
通気口の蓋は、案外簡単に外れた。
そっと取り除いて中を覗くと、どうやらそれは目的の部屋であるらしい。女が渡してくれた「どんな生き物でも判る」らしい地図と、潜入用の小道具を袋にしまう。改めて、女の準備の良さに感心した。もしかしたら、随分前から計画を練っていたのかも知れない。
(いい? 夜明けよ。戻って来れなかったら、置いていくわよ)
(判った)
(なんだったら、攫ってきてもいいわよ)
(何言ってんだ、てめえ)
けらけら笑う女の姿を思い起こす。
脅した割に、女は一人で小舟を準備してきた。櫂と地図と海軍宿舎の目印を指しながら、要はまっすぐ行けばいいのだと念を押す。目指す部屋は三階の、海に面した角であるらしい。陸上では警戒を怠らない海軍でも、海からの侵入に目が届かないことが多い。女の部屋の配置は、彼にとって好都合といえた。
口うるさく説明しながらも、女はどうにも心配そうな口調である。付いてくるかと言いたくなったが、それはさすがに悪いだろう。だから、地図を出来るだけ鮮明にたたき込み、視線を感じながら船に乗り込んだ。
離れ間際に肩をポンと叩かれ、小さく女が何か呟いた気がしたが、振り返ることはしなかった。見てはいけないような気がしていた。後のことは、残った者に任せよう。
何とか自力でたどり着いた部屋に、頭だけ突っ込んでぐるりと見渡す。幸いなことに、部屋の明かりは消えてなかった。狭い部屋だ。窓際に机が一つと、すぐ側に寝台が一つ。後、小さなクローゼットがあるだけで、人が住んでいるとは思えないほど殺風景である。
おそらく、この部屋は寝泊まりするだけのものなんだろう。移動が多い連中だから、当たり前といえば当たり前だ。頭を戻そうとして、彼はふと明かりがついたままの理由を知った。
本を胸の上に広げたまま、女がうたた寝をしている。
広げてある雑誌の題名に思わず苦笑して、彼は今度こそ頭を元に戻した。
狭い通気口を抜けて、音もなく室内に飛び降りる。そっと女の傍らに近づいた。邪魔になるため、刀はすべて船に置いてきている。始めは納得していたのだが、動いていると腰周りが心許なく、どうにもやりにくい。
違和を誤魔化すために、腰に手を置いてぐるりと周囲を見渡す。女が住んでいる部屋をもっとよく見たかったのだが、それよりも変化の方が先だった。
「……ん」
小さく呟いて、女が身じろぎするので慌ててそちらを見やる。始めぼんやり薄目を開けただけだった女は、人の気配を察したのか、それとも明かり越しに彼の姿を認めたのか、すぐに飛び起きる。同時に刀を掴んでいた。実に素早い。
「だ、誰です! 不法侵入は……!」
──── が。
彼は頭を押さえて呻く。
「刀、逆だぞ。お前」
「……へ?」
女は鞘をしっかりと握りしめ、抜こうと努力しているのだ。
数秒の沈黙。
女は見る見るうちに紅潮し、誤魔化すためか、眼鏡の位置を元に戻しながら刀の上下を入れ替える。呆れ果てて待っていると、今度は刀の柄に手をかけて、不法侵入者の姿を正面から捕らえた。そこで、ようやく相手が誰か気づいたらしい。眼を瞬かせる。
「ロロノア?」
「……お前、トロすぎ」
「いきなり何なんですか! 大体、どうやって……!」
叫ぼうとしたところで状況を思い出したのか、女は慌てて口をふさいだ。深夜の宿舎は静かだ。女が黙ってしまえば、誰の気配がする訳でもない。誰も彼女の部屋の異変に、気づいた様子がないことを確認するまで待って、女は囁いてきた。
「どうやって、ここまで来たんですか?」
「……まあ、いろいろとな」
「いろいろって……。いつからそこにいたんです?」
「ちょっと前からだ」
本当を言うと、海兵を呼ばれれば退散しようと思っていた。
そうならない方に賭けて来たとはいえ、この反応は思いの外、心を軽くさせる。
男の内心には気づくはずもなく、女は視線を逸らして肩を落とす。不法侵入者にすぐ気づけなかったことも、不法侵入を許してしまった兵舎自体にも口惜しさがあるのだろう。無視して、男は椅子を引き寄せ背もたれを跨ぐように腰掛けた。
出鼻を挫かれたせいか、いつもの覇気がない女は彼の様子を眺め、ひとつ息を付いて刀を置く。すぐにでも追い返すつもりはないらしい。またひとつ、心が軽くなった。
「で、何か用ですか?」
「ああ。聞きたいことがあってな」
「聞きたいこと?」
彼は頷く。ここに来るまでに、なにをどう話そうか、色々考えていた。しかし、それより先に聞かねばならないことを思いついたのは、女の寝顔を見た時だ。
「 ──── お前、名前は何て言う?」
その寝顔に呼びかけるものを何も持っていないと、初めて気づいたのだった。
大きな黒灰色の瞳が、更に見開かれる。
「はい?」
「名前だ。お前の名前、まだ聞いてなかったと思ってな。何て言うんだ?」
当たり前といえば当たり前、意外といえば意外すぎる問いにしばし女は硬直した。自らの側頭部を軽く叩いて、疑り深い声を出す。
「ちょっと待って下さい。ということは、あなたはわたしの名前をずっと知らなかったんですか?」
「ああ」
「“ああ”って、知らないでどうしてあんな……!」
やや大きくなった声は、「あんな」の中身を思い出した時点で、急速に力を失った。また、先ほどとは違う種類の赤みが差した頬に、つい笑みがこぼれる。動揺しまくっている女の様子は、二日前とはまるで異なり、どうにもからかいたくなって仕方ない。
戦いの時の姿と、今の姿。どちらが本当の女なのかは知らないが、同一人物にはとても思えない。そう言えば、初めて会ったときもドジを連発していた気がするから、後者の方が正解だろうか。
彼は咳払いをして、自分の思考回路も、現在の話題も元に戻した。
「そうじゃなくて、だ。お前が何て呼ばれてるか位知ってるけどな、お前の口からお前の名前を聞いたことはねえだろ」
「……」
「名前、何て言うんだ?」
彼の幾分奇妙な申し出に何を感じたのか。女は俯いてしばし考え、戸惑いがちに自らの名を名乗った。
「 ──── たしぎ、です」
「たしぎ、か」
耳の奥で、幻の羽ばたきを聞く。
「鳥の名だな」
そう呟いた途端、何かが酷く寂しかった。
女は顔を上げ、訝し気に小首を傾げる。が、問いはしなかった。代わりに、目元を柔らかく滲ませる。
「あなたの名前は?」
「あ? 俺の名前なんざ、とうの昔に知ってるだろ」
「それはそうですが、わたしもあなたの名前を直接あなたから聞いたことはありません」
生真面目に言い返され、それもそうかと思った。がしがし音を立てて頭を掻き、声を彷徨わせ、ようやく決意する。思えば、誰かに名を名乗るのは久々だ。
「 ──── ロロノア・ゾロだ」
「ロロノア・ゾロ」
その声は、今まで聞いたことがないほど真摯で、親しみや愛情が込められ、彼を狼狽させた。我知らず頬が熱くなる。その様子に女の方も動揺したのか、「な、なんか照れますね」と殆ど意味なく笑った。
笑い声が収まってしまえば、後は沈黙のみ。
どうにもやりきれない、と思ったのは、男の方だけではなかったようだ。今度は女の方が小さく咳払いをして、彼の注意を引いた。
「で、ロロノア。用はもう、済んだんですか?」
「……いや」
用は済んだどころか、始まってさえいない。しかし、何と切り出したものか。
「 ──── たしぎ」
「はい!」
条件反射なのか。名を呼んだ途端、女は背筋を正して返事をする。ぎょっとすると、女もすぐ場違いな反応をしてしまった事に気づいたらしい。あたふたして両手を振り回し、寸前の過去を取り消そうとするかのように彼の前で交差させる。
「いえ、あの、つい、声が似てて……」
脱力して笑った。
今までの決意や緊張、覚悟などを、一気に解きほぐしてまだ可笑しい。なかなか笑い止まない男に、女は刀の柄に手を掛けて八つ当たり気味に怒鳴った。もちろん、声はある程度セーブしていたが。
「いつまで笑ってるんですか!」
「お前、変な女だな」
「余計なお世話です!」
何とか笑いを治め、男は女が座っている寝台を指さした。
「そっち、移っていいか?」
「……あ、はい」
囁き声でしか話せないためか、案外あっさり許可が下りる。近づくと、一応警戒はしているのか、女は掛け布団をかき集めて首までくるんでしまう。何だか、晴れを呼ぶ某飾りものを連想させたが、敢えて指摘はしなかった。
寝台に腰掛けると、掛け布団がさらりとした音を立てる。何となく、海岸の砂の音を連想した。同時に、肩を叩かれた感触を思い出す。
(あんたは、そうやって幻を手にするのね)
別れ際に女が言った台詞が頭の中を巡った。
俯いて、彼は苦笑を紛らせる。
そんなものだと思う。
追いつ追われつ。
互いの均衡を破ったのは、自分からだった。
その均衡に幻の城を見たのは自分だった。
手にしたいと願ったのも自分だった。
──── それを願った時、自分は。
──── 自分たちは。
数多くの選択肢を、海の果てに捨て去ってしまったのだろう。
「あのな……」
そして彼は口唇を開く。
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