砂の城 −4−

            

おはぎ 様






 「ちょ、ちょっと下ろしてください!」
 「駄目だ」
 「判ってるんですか? これは完璧な誘拐ですよ!」
 「判ってるから駄目だっつってるんだろ。人質が喚くんじゃない」
 「人質ー!?」
 「そうだ」
 「だったらますます下ろしてください! わたしは戻らないと……」
 「駄目だ」
 「ロロノア……」
 「駄目だ」
 「…………」
 「……駄目だ」
 「 ──── 。本気で、怒りますよ」
 「………」
 「………」

 以上の会話を経て、たしぎは地上に降ろされた。
 とりあえず伸びをして、周囲を見渡す。そこは小高い丘の上だった。陽光に光る海がまぶしく、鏡面のように凪いで見える。所々で立つ白い波が、この鏡を更に美しく飾り立てているようだ。その青は、空の青と同じようで異なり、どちらも心洗われる。
 草原の緑と丘を滑る白い風を胸一杯吸い込んで、たしぎは明るく背後に問いかけた。
 「ところで、何処に行く予定だったんですか?」
 「別荘だ」
 返答は不機嫌でごく短い。
 「……あなたの、じゃないですよね」
 「あたりまえだ。ナミの別荘だ。この近くに買ったんだと」
 「……ナミ、さん」
 複雑な心境で、彼女はその単語を復唱した。
 それは人の名前である。
 女性で、オレンジの髪と琥珀の瞳を持ち、中肉中背、手配書から受けた印象はかなりの美人だ。海軍が唯一、『生きたまま』という条件で高額の賞金をかけた頭脳の持ち主。今はこのカテドラルアイランドの大学で、世界地図の完成にいそしんでいるという。
 しかし、その名は彼女にとって、海軍のデータに意味が深い。
 表情を無くしたたしぎを訝し気に見つめ、男は目線だけで問いかけた。慌てて首を振る。
 「じゃあ、ここに来る前に彼女に会ったんですね」
 「ああ。昨日泊めて貰って、さっきまでそこの……」
 男は顎で遠くの海岸を指した。
 「海辺に一緒にいたんだ。もう一日くらい泊めて貰おうと思ってたんだが、あいつがお前に会いに行けっつって喧しいんだ。まあ、ご親切に……」
 ポケットから鍵を取り出して、放り投げる。受け取るまでの短い時間、何を思い出したのか沈黙した。口調がやや、優しくなる。記憶を辿る瞳は、彼女に見せるどんなものよりも柔らかく、懐かしげで、少し寂しげでもあった。
 「別荘の鍵もくれたしな」
 「 ──── そうですか」
 「どうした?」
 返答は微笑みに止めた。
 おそらく、今この瞬間に感じている孤独や痛みを男は終生、理解できないだろう。
 男が、その人をどんなに大切に想っているかは、その口調ですぐに知れた。自分が知らない男の姿を、その人は知っている。自分には決して言わない類の話を、その人は知っている。自分が見たことのない男の苦しみを、その人は聞き、笑い飛ばし、肩を叩いて慰め、長い時を共に歩んでいるのだ。
 同じ船に乗り、同じ時を共有し、同じ記憶で笑いあえる仲間 ──── 。
 自分という存在が完璧に除外された空間の中で、紡がれる記憶は余りに美しく、幸福すぎ、完璧でありすぎる。
 その切なさを、彼女は巧く言葉に乗せられなかった。
 男にとって、その人の存在が単なる『仲間』以上のものであるなら、なおのことだ。
 彼女と男がどういう関係だったのか、たしぎ自身はっきりとは知らない。仄めかされたことはあったが、踏み込んだことはなかった。あるいはただ単に、形にしてしまうのが怖いだけかも知れない。どう考えたってその問いには、好奇心以上の意味があるので。
 だから彼女は頭を振るって、心に浮かんだ言葉を再び奥底に沈め直した。
 「で、場所はどのあたりに?」
 「あぁ?」
 「場所ですよ。別荘の」
 男は短い髪を逆に撫で、首を傾げた。
 「そういや、はっきりとは聞いてねえな」
 「 ──── は?」
 「考えてみりゃ、行ったこともねえ」
 「 ──── へ?」
 石像と化した彼女を一瞥し、男は暢気に片腕を上げる。任せろ、とでもいいたげなポーズだ。
 「まあ、1時間もありゃ着くだろ」
 「…………」
 おそらく、この世の中にこれほど当てにならない台詞はない。
 思わずきびすを返した腕を掴み、ゾロは冷たく彼女を見下ろした。
 「何処行くんだ、お前」
 「基地に帰るに決まってます。そんなサバイバルにつき合う時間はありません」
 「サバ……。てめえな。てめえこそ、基地にまっすぐ帰れると思ってんのか? 方向音痴のくせに」
 「言っときますけど、わたしはまだ自覚があるからマシです! それに……!」
 怒濤の勢いで、海を指す。
 正確には、断崖に広がっている海軍基地を。
 「目の前にある基地に帰るのに、どうして迷子になるもんですか!」
 そう。
 ここの海軍施設は、広大なのだ。よって、行けども行けどもまだ施設の縁、という結果になる。ここで基地に帰れず迷えるなんて、よほどの才能の持ち主だろう。生憎、彼女は寡聞にして心当たりを一人しか持たない。
 だから、そっぽを向いてため息をついた。
 「……あなたじゃあるまいし」
 「てめえ、いま人を思いきりバカにしただろ」
 「反論できますか?」
 腕を組んでにらみ返すと、しばしの時を置いて、ゾロの方が視線を逸らした。思わず、心の中で勝利の拳を振り上げる。渋い顔のまま、男は基地を指さした。
 眼下に広がる基地は、一見したところ瞳の形に似ている。仲間内で『海軍の眼』と呼ばれる所以だ。大きく、ぐるりと柵でとり囲んだ基地のその中に、塀で囲まれた別の基地がある。黒く、艶光りする、窓が一つもない頑丈そうな建物がいくつも建ち並び、威容でもって周囲を圧していた。
 彼女がいた場所の柵は一重で、監視者もなく悪魔の実対策もなされてない単なる金網だ。だから、男が触っても平気だった。しかし、その建物を取り囲んでいるのは何重もの柵だ。
 一番外側に深い堀を作り、その先に高圧電流を通した柵を巡らし、また堀を置く。その先では、海楼石で作られた分厚い壁が全体を囲んでいる。その先に浅い堀があり、目に見えない柵が張り巡らされ、昼夜を問わず侵入者を監視しているという。それの正体は海軍の最高機密であり、彼女自身知らされてない。
 泥棒を脅す為の、まったくのデマだという噂もあるが、真偽のほどを確かめた無謀者もいない。
 すべての柵には交代で3人の監視者がつき、身分証と筆跡、毎週変わる暗号などで当人を区別している。塀には、死角のないよう監視窓が付き、暴発しにくい最新型の銃器が絶えず外を向いていて、ここにも数人の見張りが立てられているらしい。
 先にようやく研究所への扉があり、また厳重な身元確認作業と全身消毒、手荷物検査などを経て中に入ることが許されるのだ。
 この、カテドラルアイランド海軍基地の中心中の中心が目の前に見える。
 「あれか。例の、『眼』ってやつは」
 「あ、はい」
 彼女自身、全体像を眺めるのはこれが二度目で、一種異様な感慨と共にそれを眺めていた。男も何やら考えるところがあるらしい。顎を手でしゃくり、しみじみ感心したように呟く。
 「でけエもんだな。難攻不落っつうのも、まんざらデマじゃねえらしい」
 「当たり前ですよ」
 「あそこで秘密兵器つくってるって、ホントか」
 「さあ、わたしは行ったことないから」
 「海軍のトップとか、よく来るんじゃねえのか?」
 「知りません。来たとしても、わざわざわたしに連絡なんて……」
 ごく自然に会話しながら、たしぎはふと、妙なことに気づいた。
 「ちょっと待ってください! なんで、あなたがそんなこと知ってるんです!?」
 「あ? 別に秘密じゃねえだろ。そこらで耳を澄ませりゃ、いやでも入ってくる」
 たしぎは平手で自らの額を押さえた。
 それはそうだろう。これほどの威容だ。男が住む世界で、噂にならぬはずがない。
 というとこは。
 ということは、である。
 彼女の脳裏に、男と始めのあたりで交わした会話が過ぎった。

 (訓練所か?)
 (監督官だってな)

 男がわざわざ基地を指さし、『訓練所か?』などと聞いてきたのは、知らなかったわけではなく、まして、本当に単なる“訓練所”だと思い確認したかったわけではなく、あれは要するに、完璧に、彼女を……。
 「 ──── わたしを、からかってたんですね……!」
 呻くたしぎにかまいもせず、男は肩をすくめ、急に基地から背を向けた。
 「とりあえず、先に行くぞ」
 「ちょっと待ちなさい! 他には! 他に何を知ってるんですか!?」
 「他? 他はだなあ……」
 頭を掻いて、何を思い出したのか、手を打つ。
 「お前が承認拒否してた海峡工事。あれ、着手されたらしいぞ」
 「な、なんでそんなことまで知ってるんですか!!」
 よりによって、あれほどがんばって誤魔化したことをあっさり指摘され、たしぎの頬に再び朱が差し始めた。ゾロは歩きながら、ひらひら手を振って見せる。
 「まあ安心しろ。責任者はあのおっさんじゃねえ」
 「ロロノア!!」
 ついに耐えきれなくなったのか、ゾロの笑い声が草原にはじけた。珍しい男の笑い声に、たしぎは遂に救いようもなく赤面する。
 面白くない。まったく、面白くない!
 紅潮したまま、たしぎは小走りになって、笑う背を追った。基地に戻ることなど、既に念頭にない。ただ、木刀を持ってこなかったことだけが悔やまれた。あれさえあれば、この後頭部を叩き割ってメロンからスイカに出来るのに!
 「待ちなさい! あなたはどうしてそうやって、いつもいつも人をバカにして……!」
 「面白いからに決まってんだろ」
 「なんてこと言うんですか!」
 「早く来い。日が暮れるぞ」
 「そういう問題じゃありません!!」
 ひたすら苦情を言い募る彼女に適当な相づちを打ちながら、男は歩いていく。時折振り返り、怒っている彼女を見て楽しげな笑い声を立てるので、また新たな怒りが湧いた。


  ──── どうやらまた、男のペースにのせられてしまったらしいと気づいたのは、日もとっぷり暮れ、帰り道さえ定かではなくなった頃だった。




 *****




 「どうやら……、ここらしいな」
 こざっぱりとした家の前に立ち、男はぽつりと呟いた。たしぎは黙ったまま頷く。
 それはそうだろう。
 他の別荘では、みんな調べ済みだ。明かりがついている扉は迷惑も顧みずに叩いて回り、
 (……はい?)
 (おい、ナミの家は何処だ?)
 (はあ? どなたですか、あなた)
 (誰だっていいだろ。文句あんのか、てめえ)
 (ひぃぃ!)
 (ロロノア!!)
 等の、何の脈絡もない質問を浴びせ無意味に脅しまでかけ、一般市民の安穏な生活を脅かし、一方、明かりのついてない家では鍵が合うかどうか確かめて、
 (駄目だな)
 (駄目ですか)
 (仕方ねえ。こっちから入るか)
 (ちょっと待ちなさい! なんで窓ガラスを割ろうとするんですか!)
 (あ? 普通、そうやって入るだろ)
 (ロロノア!!)
 等の、家宅侵入器物破損罪の一歩手前を超低空飛行で彷徨い、ようやくたどり着いたのがこの家なのだ。今までの行程は、はっきり言って体力以上に精神力に疲労がたまっている。より正確に言えば、たしぎだけに。
 思い起こしただけで、疲れがどっとこみ上げてくる。
 「おい、何そんなとこでうずくまってんだ」
 「いえ、ちょっと己の不甲斐なさに忸怩たる思いが」
 「……? 妙なヤツだな」
 彼女の気持ちを知ってか知らずか、ゾロはふと表情をゆるませ海の方を指した。満月にほど近い明るい夜だ。男が腕を伸ばすと、淡い影が地面に落ちる。影に促されてそちらに向くと、夜空よりも暗い植物園が別荘に隣り合わせとなって在った。
 「見ろ、ミカン畑だ」
 「ミカン……ですか」
 正直、月明かりに助けられても夜目は効く方でない。樹種までは確定できなかった。ただ、男が妙に嬉しそうに断言するのを聞いてそうだろうと思う。自分には判らないが、男には確信があり、それに基づいて断言しているのなら間違いあるまい。
 まだ背の低いミカン畑は、彼女の視線を受けてさわさわと揺れた。
 「まだ、時期じゃないな」
 「美味しいんですか?」
 「ああ。……悪くねえ」
 ひねくれ者にしてみれば、それは最大限の誉め言葉だ。
 そう言えば、彼女の髪も果実と同じような色だった。遠目にしか見たこと無いが、あの容姿は印象的だ。よく覚えている。そして、ずっと追い続けていた海賊団もまた、同じ樹を抱え航海を続けていた。男にとって、その色も樹も仲間のようなものなのだろう。
 ( ──── )
 少しだけ、胸が痛んだ。
 理由は考えないことにした。
 改めて、用意された家を眺める。他の別荘地に比べたら、家自体は小さい。が、その分畑や装飾に工夫が凝らされている。門をくぐるとすぐに煉瓦が敷き詰められ、その脇にはハーブが飾られていた。
 植物には詳しくないが、種々に咲き乱れる花はそれだけで美しく、雑多なようでありながら、よく整えられている。主人の性格が判るようだ。
 その先には煉瓦仕立ての塀が続き、ツタが巻いてるのが僅かに確認できる。きっと、秋には綺麗な紅葉を見せるのだろう。塀の角には風向計が取り付けられ、海鳥が時折羽根を揺らしていた。
 その風向計の棒の下には旗が靡いている。色までは判らないが、×印にも見える旗だ。大きさはそれほどでもない。何の暗号だろうか。
 おそらく意味を知っているであろう男への問いは、部屋の明かりが唐突に点いたことで遮られた。
 おっかなびっくりの男の声だけが、調子外れに響く。
 闇に慣れた目に、明かりはまぶしい。慌てて瞬かせると、扉を開けた男も同じように目をこすっている。家の裏手の方で、機械音が響いた。どうやら、扉が開くと自動的に自家発電が作動する仕掛けになっているらしい。
 心臓には悪いが、効率的である。
 明かりが点ると、庭はたちまち闇に沈む。もう、ミカン畑は見えないし、ハーブの類が多く植えられていた庭も、旗もすべて黒一色に染められた。明かりに目が慣れ、危険は無いらしいと判ったところで、ゾロは姿勢を正して扉を完全に開き、中を覗き込んだ。
 男の姿が明かりの下に浮かび上がる。
 「 ──── あ」
 不意に、たしぎは声を上げた。
 この島で初めて男と顔を合わせた時のことを思い出す。あの時、何か違和感を感じたのだったが、理由が判らなかった。久々に会ったせいだろうかと思ったのだが、やはり違った。今こうして、明かりの中に男の姿を見てようやくその理由が判る。
 「なんだ?」
 「刀……」
 そう、男は刀を帯びてなかったのだ。
 何年も顔を合わせてきたのにそんなことは初めてで、だから余計に理由が判らなかった。
 考えてみれば当たり前だ。この島に刀剣銃器、武器の類は持ち込めない。一応、民間人であるこの男は入国審査の際に刀を手放したのだろう。剣士が刀を手放すシーンなど想像できなかったが、今ある事実からすれば結論はそれしかない。
 海兵である彼女は、数ある特権の一つとして愛刀を基地に持ち込んでいる。しかし、それでも基地外の携帯は禁止事項だ。有事の時のみ使用を許されているが、実際使ったことはないという。この島との安穏な関係を守るため、むやみに刺激するような真似はしたくない、というのが海軍の本音だからだ。
 同時に、単純すぎる答えに情けなくなった。自分も剣士の端くれで、ましてやこの男の刀を狙って何年も追い続けているというのに、半日以上気づかなかったのだ。自分では平静のつもりだったが、久々の再会に舞い上がっていたとしか思えない。なにやらいたたまれない気分になる。
 これはまたからかわれるに違いないと腹をくくったが、男は腰に手を置いて低く、ああ、とだけ答えた。
 「変なもんだな、何もねえってのは」
 「そう、ですね」
 「軍に連絡して、俺の刀を差し押さえようとか考えるんじゃねえぞ」
 「思いませんよ」
 むっとして言い返す。
 「わたしは、正々堂々と勝負してあなたから刀を奪ってみせるんですから」
 「……そうか」
 男は何とも言い難い笑みを一瞬だけ口元に刻み、たしぎに先にはいるよう促した。疑問符が脳裏をかすめたが、いつまでも外に立っているのも妙な話だ。素直に従うことにする。
 中は思ったより広かった。
 玄関を入ってすぐ左手に書斎があり、右側は何処に通じるのか。枝分かれした廊下が延びていた。その先は、扉が閉まっていて判らない。広い廊下をなおも進むと視界が開け、ソファーや低いテーブルが目に入った。
 一番大きな部屋は南向きで、窓は大きい。歓談の場所にはもってこいだ。乾燥に強い植物が鉢植えで置かれ、ともすれば殺風景になりがちな部屋を親しみやすいものに変えている。
 まだ先に廊下は続いていたが、探索を一旦中止し、たしぎはソファに近づいて柔らかな感触を楽しんだ。
 「いい家ですね」
 ごく自然に感想が漏れた。
 「 ──── だな」
 返答は予想よりやや遠く、くぐもった音色で後頭部に当たる。何をしているのか振り返れば、台所から水を飲みながら男が出てきたところだった。小脇にソーセージやチーズ、干した果物、長期保存用のパンといった食料を抱えている。手際の良さに呆れた。
 「いいんですか?」
 「了解済みだ。酒は地下室にあるらしい。取ってくるから、これ頼むわ」
 食料ごと、飲んでいた水も一緒に渡され、大慌てで受け取る。半分ほどまだ残っていた水は、ためらいつつ飲み干した。半日以上歩き続けた身に水は染みる。何をおいてもまず酒、という男が真っ先に水を飲んだのが判るほど、その水は美味かった。
 受け取った食料を適当に並べ、ソファに座り込む。
 机の食料を眺め、はっきり言って並べただけ、という状況に少し悩んだ。皿を並べて小綺麗に飾り付けてみようかとも思ったが、刀はともかく、それ以外の刃物は苦手だ。おまけにどうすれば美味しそうに、かつ食べやすく盛りつけられるのかなんて、見当付かない。
 料理などは、かつての上司の方がよほど巧かった。
 とりあえず、餓死しない程度の料理 ──── 魚を釣ったり、鳥やウサギを捕まえてその場で捌き、塩で味付けして焼く ──── くらいは出来るが、それ以上のことはからきしである。食べられる山菜とそうでないものの区別も付かない。
 長い行軍の中、当然たしぎに料理人という役割を期待する者も多かったが、出来ないものは出来ないと半ばやけくそ気味に諦めていた。最近となっては、期待されることすらまれなので、最後に包丁を握ったのがいつかなんてことも思い出せない。
 しかし、あの男が彼女より料理が巧いなどということは、天地がひっくり返っても考えづらいのもまた事実だ。ということは、である。男がいつ彼女を『解放』してくれるのかは知らないが、その間ずっと保存食だけなのは確定的。たまに魚が捕れればいい方、という何とも野性味溢れる食生活が待っている計算になる。
 (……まいった)
 せめて、一品でも食べられる、もとい、作れる料理を持っておくんだった。
 後悔はいつだって先ではなく、後に立つものだ。つくづく、その言葉を実感しつつ、彼女は机に突っ伏して呻いた。
 「たしぎ」
 「 ──── はいっ!」
 昔のことを思い出していたせいだろうか。
 低い声に思わず姿勢を正し、威勢のいい返事をする。喉の奥で鳴る笑い声。すぐに事態を飲み込んで振り返ると、酒瓶を抱えた男が羞恥心を刺激するような笑みで立っていた。いつの間に戻ってきたのだろう。もう何度目か判らないまま、頬が熱を帯び始める。
 またやらかしてしまった失敗をどう言いつくろおうかと考えている内に、男は手にした瓶を差し出してきた。酒は余り強くないのでよく分からないが、ワインの瓶らしい。
 「お前も飲むだろ。赤でいいか、“曹長”」
 かつての役職は、この男の口から漏れる限り、非常に嫌みっぽく響く。差し出された瓶を乱暴に受け取って、たしぎは思い切りしかめ面をしてみせた。
 「ありがとうございます!!」
 「どういたしまして、“曹長”」
 成功した悪戯の結果を確かめている子供の笑みに、やっぱり木刀を持ってくるべきだったと激しく後悔した。
 ともあれ。
 空腹が人を怒りやすくさせるのと同じで、美味い食事と満腹感は人の気持ちを和ませるものだ。始めはぎすぎすしていた雰囲気も、食事が進むにつれて角が取れ、会話らしきものも生まれ出した。
 話すことと言えば、ここの海が綺麗だとか、入国審査で苦労したとか、彼女が任務地からいなくなり、海賊グループで彼女を忍ぶ会が開かれたとか、そういった他愛ない話ばかりだ。
 男は珍しく機嫌良く、よく喋り、よく相づちを打った。おかげで下手に緊張せずにすんだが、もしかしたら男の方がもっと緊張していたのかも知れない。なにせ、お互いが交わす会話は刀のみで、普通の会話など殆ど持ったことがないのだから。
 「ところで、ロロノア。いつまでここに?」
 三杯目のワイングラスを空けたところで、ようやくたしぎはつかえてた問いを吐き出した。彼女が一杯空けるのと同じ速度で酒瓶を空けながら、男はぴくりと眉を上げる。穏やかになりつつあった気配が鋭く尖り、肩が強ばるのを見て、話したくない類の話なのだと見当付いた。
 黙っていると、男は酒臭い息と共に緊張を解く。
 「そうだな。……気の済むまでいるさ」
 そう長くいるつもりはないらしい。
 「何かあったんですか?」
 「……何でそう思う?」
 問いに問いで返されて、眉を顰める。
 「でなきゃ、どうして今ここに来てるんです。もっとずっと長い間会ってないことだってあったのに」
 「………」
 「わたしに急ぎの用事があるようなことが、起こったんですか?」
 男は視線を窓にやり、ミカン畑が風に揺れる様を見ながらふと笑った。
 「たまには、こういうところでのんびり息抜きしたくてな」
 「そんな理由で、刀を手放すあなただとは思えません」
 断じると、また黙り込む。ここではぐらかされるといつまでも先に進めないと自らを鼓舞し、たしぎは男を覗き込んだ。
 「ナミさんに言われたからここに来た、と言ってましたよね。だったら、彼女に言われなかったら来なかったんですか?」
 虚しい気分で指摘する。
 そう言えば以前、同じように「ナミに言われた」という理由で、男が彼女を訪ねてきたことがあった。あの時と同じようなことがあったのだろうか、と推測するのはあながち間違いではないはずだ。
 そして、もしそれが本当なら、何らかの変化が自分たちの間に起きたことになる。
 前の変化は劇的だった。次の変化もまた、そうであろう。
 「わたしに用があって、でもナミさんに言われないと来られないような件で、急ぎなんですよね。それって、何ですか?」
 「 ──── なんだと思う?」
 男は、酷く静かな声音で尋ねた。改めて注視すると、彼は完全に表情を消し、彼女の出した結論を待っている。自分の病名を宣告される患者のようだ。そんなのはずるい。男は結論を口に出せなくて、畏れていて、彼女の口を借りようとしているのだ。
 正直に言うと、見当は付いている。
 だから敢えて、視線を強いものにした。グラスから手を離し、姿勢を正して男の顔を正面から捉える。
 「あなたの口から聞かせてください」
 「 ──── ……」
 ゾロは困ったような、ためらうような、驚きを隠そうとするような複雑な笑みで視線を逸らした。逡巡する手が、自分の頭をかき回す。ため息と、長い沈黙。そして、時間さえ無くなるほどの静寂の後、小さく、本当に小さく呟いた。
 「 ──── 違う」
 「何がです?」
 「……会いに行くつもりはあった」
 「………」
 「とりあえず、顔だけでも見たいと思ってた」
 その声音に呼び起こされるのは、不安だけだ。どんな時でも無駄に威勢良く、強気で尊大な男が、弱音を吐くなど、彼女の辞書にはない。男は目を閉じて眉間のしわを指で伸ばし、深く空気を求めた。
 肩が上がり終わるときを、彼女は祈る思いで待つ。一秒をこれほど長く感じたことなど、今まで無かった。やがて、呼気のすべてを吐き出して男が彼女の名を呟く。
 「……たしぎ」
 「はい」
 「お前は、後何本で刀を集め終わるんだ?」

  ──── ああ、やはりその話なのだ。

 予想された問いに、それでも心臓が冷えた。たしぎは気づかれぬよう机の下できつく手を結ぶ。いつの間にか両手は、緊張で凍っている。だが、話のきっかけを作ったのが彼女なら、続けるのも彼女の役目だ。逃げることは許されない。
 「後は、あなたの刀ともう1本だけです」
 「もう1本……」
 「今の、世界一の剣豪の刀です」
 わざわざ『今の』と付けたのに、理由など無い。男がちらりとこちらに視線を寄越したので、初めてそれが意味するところに気づいた。
 「だったら、喜べ」
 男は酒瓶を脇に避け、机に寄りかかって空咳をする。
 「もうじき、どちらか1本が手に入るだろう」
 続いての沈黙は問いかけを許す類のものではなく、男の結論を待つ為のものだ。だから彼女は表情を動かさず、見守り続けた。最後の最後にゾロは顔を上げ、彼女のまなざしを真正面から射て、彼の決意に揺らぎがないことを明らかにする。


 「俺は、グランドラインに戻る。今度こそ、ミホークを倒す」


 固い声はまっすぐにたしぎを突き抜け、部屋の壁に跳ねていつまでも余韻を残した。
 「……そう、ですか」
 思ったのは、ついにこの日が来たのだということ。
 男の夢は以前に聞いて知っていた。
 半端な道のりではないと警告すれば、無邪気な笑みでそうだな、とだけ答えたことを思い出す。
 男の最後の航路が、ようやく始まったのだ。
 「どちらの刀か、とは言わないんですね」
 「言えねえな。約束も出来ねえ」
 「……ですね」
 たしぎ自身は、世界一の剣豪、とやらに会ったことはない。噂だけだ。
 ただ、男を見ているだけでその大きさは判る。その強さも、深さも、困難さも。男が憧れ、熱望し、その生涯すべてを使い果たしてでも手に入れたいという美酒は、男の命そのものだ。
 そして同時に、彼女は知っている。
  ──── そこは、血で血を贖うしかない呪われた玉座。
 純粋すぎる願いは、時にそれだけでも罪だ。その地位がどんなに名誉で、どんなに羨望の的であり、崇拝の対象にさえなったとしても呪いは消えない。戦いの美しさは、時に血の臭いを薄めることはあっても、それ自体を消し去ることなどできない。
 その世界に、男は進んで命を投げ出そうとしている。
 「てめえには、気にくわないことだろうけどな」
 表情を読みとってか、男はにやりと笑った。いつもの笑みだ。少しだけ気が楽になって、彼女は緩く肯じた。
 「がんばって、とは言えません。勝ってください、とも言いません」
 彼女にとっての刀とはただ、人を守るために必要なのもので、それ以外の用途はない。
 どんなに弱い者であれ誰かの為に振るうなら、それは最強の刀だし、どんなに強い者であれ己のためにしか振るわないのなら、それは愚かな刀だ。それに順位をつけるなんてのは間違っている。それに命を掛けるなんて荒唐無稽だ。
 「……ただ」
 ただ、男の瞳は余りに純粋で。
 ただ、どのような理屈も透過し、光のようにまっすぐで。
 ただ、それを手に入れるためには命さえいとわない愚かさに、感動さえ覚えることもあり。
 「ただ……」
 それでも目の奥に夢を掴んだ男と、つかみ損なって海に墜ちていく男の姿が交互に現れ、彼女の気管を重く塞ぐ。最終地点へ男を送り出そうとする右手と、安全な場所に引き留めようとする左手が同時に動き出し、机に跳ね返され、鈍い痛みを脳に伝えた。
 ありとあらゆる感情や言葉が彼女の中でせめぎ合い、さざ波を起こし、揺れ動き、打ち消しあい ──── 。
 結果、何も生み出せないまま、時間だけが風に溶けて消えた。
 「こ、こんなとき、普通、何を言うものなんでしょうね」
 彼女は一息ついて、強いて明るい声をあげる。かゆくもないのにこめかみを掻き、眼鏡の位置を調節した。
 「身近に大剣豪になろうなんて人はいないもので、全然、なにも思いつかなくて」
 「普通いねえだろ」
 「そ、そうですね。すみません」
 冷静な指摘に、思わず笑う。自分の耳で聞く自分の笑い声は掠れていて、調子っ外れで、空回りしているネジの音さえ聞こえてくるようだ。最悪だ。こんな時、例えば『彼女』なら、あるいは船の仲間なら、気の利いた台詞の一つや二つ軽く思いつくだろうに。
 思わず浮かんだ考えが、自責の念に輪を掛けた。堪えきれなくなり、黙り込んでそっぽを向く。唇を噛んで、何もない自分の中から何とか相応しい言葉を探そうと躍起になった。なのに、かき混ぜるほど頭の中は混沌とする一方で、逃げだしてしまいたい衝動に駆られる。
 と、ゾロが立ち上がり、彼女の傍らにかがみ込んできた。
 固くなる身体を優しく抱き寄せ、くしゃくしゃと髪をかき混ぜて、絡めた指に自分の顎を乗せる。
 「お前なぁ、笑うか泣くかどっちかにしろよ」
 その口調は、困っているようなからかっているようなもので、彼女は慌てて反駁した。
 「な、泣いてなんかいません!」
 「そうか?」
 「第一、あなたが勝手に死に急ぐだけの話にどうしてわたしが泣かないといけないんですか!」
 「へいへい」
 「うぬぼれるのも大概にしてさい!」
 「……悪かったな」
 「そんなのだから、海賊は海賊だって言われるんですよ。まったく、何処まで行っても自分本位の自己中心で、自分に都合良くしか解釈しない万事自分だけの人間なんだから。そういうのを最低って言うんですよ。あなたは最悪です!」
 「……。お前、いい加減にしねえと本気で怒るぞ」
 言いながらも、男の口調に苛立ちはなく、肩に廻された腕は柔らかく重たい。額に当たる心音は一定のままだ。いつまでも自分を離そうとしないのをいいことに、たしぎはきつく目を閉じた。たった今聞いた言葉が蘇る。

  ──── 『顔だけでも見たいと……』

 それは決別の言葉だ。
 追うことも追われることも拒絶する言葉だ。
 ゾロは何もかもをこの地で精算し、夢だけを持って旅立つために来たのだと強く思った。











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