砂の城 −5−

            

おはぎ 様






 どれほど時間が経ったのだろう。
 何度も深呼吸し、体内の嵐を沈め、たしぎは頭を撫でる男の手をそっと払った。腕から抜け出て、照れ笑いを浮かべる。
 「なんか、すごいしんみりしちゃいましたね」
 彼女が抜け出た腕の形のままで、男は少しだけ残念そうに唇をゆがめて、そうだな、と呟いた。続く沈黙を聞かないよう、彼女は慌ててワインのコルクを引き抜き杯を満たす。男の酒瓶を引き寄せて、無理矢理握らせた。
 「飲み直しましょう。もっとおつまみいりますか? 取ってきましょうか」
 「 ──── ああ」
 立ち上がろうとすると、男は一瞬引き留めたそうな素振りをした。他に用があるのかと瞳で問いかけたが、何故かすぐに男の方から目を逸らす。その唇が何か言いたそうに開かれ、収穫を得ないまま閉じられた。
 疑問符と共に台所に向かい、棚に並んでいた木の実の缶を2、3種類引っ張り出す。戻ってみると、ゾロは未だ机の端に腰掛けていた。組んだ膝の上に頬杖をつき、あらぬ方向を見据えている。何か考えている風情だ。
 これからの旅路を想像しているのだろうかと、胸の奥が痛む。黙ったまま、傍らのソファに腰掛け直し、会話の切れ端を探しながら酒を口に含んだ。こういう雰囲気は苦手だ。今までの暖かだった空気がすっかり冷え、また元のぎこちない二人に戻ってしまった。
 と、そっぽを向いたままだったゾロが、やんわりと息を吐く。




 「結婚でもするか」




  ──── ブハッ!



 余りといえば余りに唐突な申し出に、たしぎはせっかく口に含んだワインをすべて吐き出してしまった。
 しかも吐き出しきれなかった酒が気管に入り、頭が真っ白になる。ソファから転げ落ちんばかりの状態で、猛烈にせき込んでいる女の背を眺めつつ、彼はぽつりと呟いた。
 「あーあ、もったいねえ」
 指さす先には、机上で倒れてしまったワイングラスとこぼれてしまった赤ワイン。
 表面張力のおかげでかろうじて床にこぼれずに済んでいるが、飲めるはずはない。なみなみと注いだはずのグラスは空で、どうやら酒飲みの心にいたく傷を付けたらしい。
 が、そんなことは関係なく、たしぎは勢いよく男を指さした。
 「あなたがいきなり妙なこと言い出すからでしょうが!」
 男は眉を顰める。
 「人のせいみたいに言うなよ」
 「あなたのせいでしょ!!」
 最大の声量で男を黙らせ、大至急立ち上がる。思わず膝が机の角にぶつかり、今度はワインの瓶を倒しそうになる。それはゾロがすかさず手を出したおかげで事なきを得た。ともかく部屋を駆け回ってありったけのタオルを用意し、被害箇所に置いて廻る。
 水で濡らしたタオルで、ソファにまで飛び散ったワインの飛沫を大急ぎで拭き取り始めた。運の悪いことに、彼女が飲んでいたのは赤ワインだ。そして、ソファは染み一つない柔らかな色合いの白である。目立つことこの上ない。
 後でシミになったら家主に何とお詫びしていいか、と考えれば涙まで浮かんできた。
 その背後では、脳天気な男が脳天気にワインを空けている。美味い、という無邪気な感想に、半ば以上本気で殺意が湧いた。
 「 ──── で、どう思う?」
 「何をですか?」
 この際、声が少々冷たくなっていたとしても仕方あるまい。男は瓶口で、たしぎを指し、途切れてしまった会話を思い出させようとする。
 「だから、け」
 「もういいです、言わなくて」
 危険な一言は、意味を持ちきらない内に断ち切った。当然、不満の声があがる。
 「今、聞いただろうが」
 「もう聞きたくないって言ってるんです!」
 あらかたふき取ったせいで、すっかりワイン臭くなったタオルを男の顔目がけて放り投げた。額でそれを受け、ゾロは面白くなさげに痛て、とぼやく。無視して、彼女は男から一番遠いソファの角に腰掛け、腕組みして睨みつけた。
 「どこをどういう経路で辿れば、そういう奇天烈な結論に到達できるんですか」
 「奇天烈?」
 「最高に面白くない冗談とでも? 新手の精神攻撃ですか?」
 「お前なぁ……」
 「それとも、ナミさんから何か言われたんですか?」
 殆ど捨て鉢な気分で吐き出すと、男の顔色が明らかに変わる。こめかみを強く押さえて、ため息を付いた。この男は一見無愛想で鉄面皮、何を考えているのか判らない風だが、実のところ単純明快。分かりやすくできている。
 「言われたんですね」
 「あのな、いくら俺でもナミに言われたからっつーだけの理由で、ンなこと言い出すわけねえだろうが」
 「……じゃあ、なんです?」
 男はついと目をそらして、短い髪をかき回した。あーともうーともつかない声を出し、話し始めるきっかけを練っている。
 「ルフィがナミと結婚したのは知ってるだろ」
 「 ──── ええ、はい」
 「その理由をナミに聞いたんだ」
 遠くを見据え、思い出そうとする視線。
 「まあ、税法上有利だとかなんとか色々理由はあったらしいが、一番の理由はな。今の制度だと、死亡通知であれ何であれ、必ず片割れに届くってことだったそうだ」
 「……」
 「あいつ、笑ったんだと。何処にいようと、どんな形だろうと、いつかは必ずナミのとこに戻れるってな」
 何が可笑しいのか、小さく笑う。
 「ま、2年はいくらなんでも待たせすぎだとは思うけどな」
 「 ──── それで?」
 たしぎは腕組みを解いて膝の上に置き、柔らかく続きを促した。現在行方不明の海賊のことは知っている。いつ会っても少年のような率直さを残した、海軍史上最高の賞金首。そのギャップは、いつでも彼女に不可思議な感銘を与える。
 子供が出来たことも、航海士と結婚したことも知っていたが、そんな約束をしていたとは知らなかった。永遠の少年、といったイメージに航海士の肩を抱く姿を重ね合わせる。やはり齟齬を感じ、可笑しくなった。全く、人を想像で判断するものではない。
 彼女の内心を知る由もなく、ゾロは両手を天に向けて肩をすくめた。
 「そういうことだ。お前も、この……」
 腰に手をやりかけて、舌打ちに近い表情になる。刀がないことにまた気づいたのだろう。諦めて腕を下ろした。
 「俺の刀を欲しがってただろ? だから……」
 らしくなく、言いよどむ。
 こちらを見返す瞳に光が点り、真剣な面もちが加わった。たしぎは思わず居住まいを正し、机の端とソファの端で見つめ合う。おかしなもので、そうすると何故か以前にもそんなことがあったような気がしてきた。
 どこでだったか、とっさには思い出せなかったが。
 ただ、男の瞳にさっきの言葉が重なる。
 (いつかは必ず……、戻れると)
 嫌な予感がした。

  ──── 次の結論は、自分には恐ろしい。

 そんな予感。
 だが、耳を塞ごうにも体は動かず、言葉だけがすんなりと入ってくる。男は目をそらし、軽く笑う。何でもないことのように呟いた。
 「次に刀を手にするヤツが判っていた方が、俺も気が楽だ」
 「待ってください!」
 反射的に叫んで、たしぎは立ち上がる。あるいは、今聞いた言葉をうち消したかっただけかも知れない。激情のままに男に歩み寄り、指を突きつける。そんな反応を予想してなかったのか、男は僅かにたじろいだ。
 「つまりあなたは、負けるつもりで挑むんですか!?」
 「そうはいってねえだろ」
 「言ってるようなものです! さっきから聞いていれば、勝負は未だ付いてないのに、そんな弱気なことでどうするんですか!」
 「弱気に見えるか?」
 「見えます。ロロノア、わたしは毎回あなたに挑んでますけど保険なんてかけたことないですよ。いつだって、死ぬ気で挑んでます」
 強く拳を握りしめ、振り上げんばかりの勢いで声を荒らげる。
 「必ず勝つ、くらいの気構えで挑まないで、どうして世界一なんてなれるもんですか!」
 彼女が激昂すればするほど、男は楽しげに瞳を揺らした。さっきまでの真面目な雰囲気は何処へやら、いつもの人を食った笑みが口の端に登り頬杖を付く様は、彼女をからかうときそのままだ。
 「さっき応援はしねえとか言ってたじゃねえか」
 「勝負に対する姿勢に問題があるって言ってるんです! そんな理由でけっ、結婚なんてとんでもありません!」
 「じゃ、そういう“つもり”じゃなかったらいいのか?」
 「それに!!」
 何も聞かなかったことにして、話を進める。
 「ルフィさんは戻るつもりだし、ナミさんも待つつもりなんでしょう? それはあの方たちの幸せであって、わたしには関係ないはずです」
 拳を下ろす先を見いだせないまま、ふと何かが急に虚しくなって唇を閉ざす。

  ──── 待っていてくれ。

 その言葉が聞こえないわけではない。ただ、素直に頷くには余りに自分たちは立場が違う。
 たしぎはいつでも、海軍であるつもりだ。女であり、兵士であり、剣士である。そうあり続ける自分に誇りを持っている。女であることに不満はなかった。もし、とか、例えば、という仮定が頭を過ぎることはあったが、それ以上に強く今の自分に出来ることを目指し続けている。
 自分の中で夢を新たに誓ったときから、後悔すまいと決めた。男に負けたときから、自らの力なさを思い知らされたときから、振り向くまいと決めた。男が、世界一の座が転がり込んでくるのを安全な場所で待っているつもりがないように、彼女もまた留まるつもりなど無い。
 待て、と言われるのは侮辱だった。強がりだと取られてもかまわない。その強がり故に彼女はここまで旅を続けてきたのだ。それを否定しないで欲しかった。
 「すべての刀を回収することが、わたしの夢です。あなたが何処にいようと、何処の海で藻屑になり果てようと、かならず探し出して、その刀を回収します」
 「……」
 「忘れたんですか? わたしはかなりしつこい性格ですよ?」
 冗談めかして微笑む。彼女の強がりを読みとったのか、はたまた自らの計算違いに気づいたのか、男はくつくつと笑った。
 笑みを収めた後、男は妙にさっぱりとした顔になった。まるで、あらゆるパーツがあるべき所すべてに収まったような、暗闇に迷い込んだ子供がようやく正しい道を思い出したような、そんな顔でひとつ頷く。
 「前言撤回だ」
 「……え?」
 その声は余りに小さくて、聞き損ねて身を乗り出した。が、男は繰り返さず、今度は咳払いをして、低く囁いた。
 「何のためにここに来たか、聞いてたよな」
 「 ──── ええ、はい」
 悪巧みの笑み。
 「実は、てめえが僻地に飛ばされたって聞いたんで、からかいに来た」
 彼女は一瞬きょとんとし、ややあって顔をゆるめた。
 「顔を見に来たんじゃなくて?」
 「当たり前だ。だれがこんな、うざったいしつこいパクリ女の顔を好きこのんで見に来るか。いなくなってせいせいしてたってのに」
 「殴りますよ」
 「やってみろ」
 一旦笑い出すと止まらない。くすくす笑いながら、殴る真似をしてみせる。
 「あなたは本当に、救いようのない悪人ですね」
 「まったくだ。俺も今、そう思った」
 「 ──── 今頃ですか?」
 「今初めてだ」
 男はしかめ面で言ってのけ、膝に手を置き反動で立ち上がった。今まで小さく見えた男の背が急に伸びて、妙に圧迫感を感じる。半歩引こうとすると、男は逆に彼女を引き寄せ、背中を撫でて髪をかき混ぜた。
 「変わらねえな、お前って女は」
 しみじみ、感慨深く呟く。
 何のことだ、と言いかけ、ふと昔の映像が頭を過ぎった。思い出した。あの時も、自分たちは同じような会話を行い、そして同じような結論にたどり着いたのだった。ようやく納得してたしぎは確信と共に頷く。
 「変わるはずがありません」
 「 ──── そうか」
 迷惑な話だ、などと笑いながら、男はそれでも嬉しそうに身体をかがめた。目の前が顔で満たされ、薄暗くなる。目を閉じると、柔らかい唇が彼女のそれをついばんだ。髪を梳いた両手で頬を包み、もう一度唇に触れようとする。
 そこで言い忘れたことを思い出し、たしぎは目を開いて身体を離した。
 「刀を回収するついでに、あなたの骨も見つけてあげましょうか?」
 「……。なんだかんだ言って、てめえが一番負けるのを予想してねえか?」
 「あなたが最初に言い出したんでしょう」
 「あれは例えばの話だろうが。真面目にとってどうする」
 「例えばの話だろうと何だろうと、負けた時の事を考えてる人の勝敗なんて目に見えてると思いますが」
 「馬鹿言ってんじゃねえよ」
 「だ……!」
 言いかけたところで、男は急に彼女の身体を抱え上げた。悲鳴を上げる間もなく、今度は乱暴に唇を塞がれる。挑みかかるような笑みに言葉を失った。深い色合いの虹彩が、灯りを受けて煌めく。たしぎの中の剣士が反応した。苛烈とも言うべき戦いに身を置いた、人間の顔がそこにある。


 「誰が負けるか」


 一番聞きたかった言葉に微笑み、彼女は力一杯その身体を抱きしめた。
 固い手応えに心臓が震える。折れそうなほど強く抱き返されて、心も体も苦しくなった。合わさった頬はざらついていて、その半端な痛みも心地いい。
 ゾロは彼女を片腕で支えつつ、その存在を確かめるように身体に触れる。服の上から足を撫で、腰のラインを辿り、背中を幾度も擦り上げる。言葉はない。ただ軽い口づけを無数に注ぎ込みながら、次第に吐息を荒らげていく。
 たしぎも腕を太い首に回し、肩に噛みついたり、髪をくしゃくしゃと混ぜたりして応戦した。と、男は邪魔な眼鏡を外し、近くの机に放り投げる。かしゃん、と乾いた響きに、ふと唇が離れた。訝しむ彼女の目の前で、悪巧みを思いついた子供が唇を横に引く。
 「そういや、ナミがな。子供の教育によくないから、ベットのシーツは替えといてくれだとさ」
 その意味するところを考え首を傾げる彼女に、なおも悪巧みは続く。
 「てことは、だ。どうせ替えるんなら、何してもいいっつーことだよな」
 「な、なっ、なんでそんなことになるんで……!!」
 ようやく気づいて顔を真っ赤にし、必死に抗議した。しかしすべては虚しく、彼女の身体がもう一度居間に降りることはなかった。




*****




 例えば、ここに一枚の紙がある。
 表に鳥の絵を描き、裏に空の鳥かごを描く。大きさは掌に収まる程度が望ましい。形は問わない。お厚紙の両端に糸をくくりつけ、絵が高速で回転するように動かしてみる。するとどうだろう。
 一瞬ではあるが、鳥かごの中に収まった鳥の姿が見えるはずである。
 それは目の錯覚だ。動きを止めてしまえば元の木阿弥。鳥はただ鳥のままで、鳥かごは空のままになる。動かし続けることで初めて、触れあうことも重なり合うことさえ出来ないはずの絵が、一つの絵となるのだ。
 まるで、自分たちのようだと言ったなら、男は笑った。
 自分にとっては砂の城だと、そう笑った。
 続けている自分たちが一番続かないと信じている関係をどう呼べばいいのか。彼女は知らない。




*****




 「 ──── あのな」
 そういったきり固まってしまった横顔を眺め、たしぎはぼんやり眺めていた。
 目の前には男がいる。
 短い髪の男だ。やや額が広く、すっきりとした鼻梁で、唇は薄い。骨張った頬の線や、続く太い首に、鍛え上げた身体はただでさえ迫力があり、この狭い部屋の温度を1、2度上げるようだ。切れ上がった三白眼や無愛想な表情が、居丈高で剣呑な雰囲気を確固たるものにしている。
 今は持っていないようだが、これに刀を差せば、彼女が追い続けていたロロノア・ゾロの出来上がりだ。まるで、彼女の夢の中からそのままとりだしてきたような気がする。
 そう、たしか自分はうたた寝する前に、この男のことを考えていた。まさか目が覚めた途端、その相手が目の前にいるなんて思いもせず、もう一度会ったらどんな顔をすればいいのだろうか、などということを。
 彼女の寝台には、腰掛けて俯き言葉を絞り出そうとしている男がいた。その男の名前は知っている。もうずっと前から、この背を追い続け、いつか振り返らせることを夢見ていた男だ。何度も戦い、傷つけ合い、そして ──── 。
 ほんの二、三日前の光景が心を過ぎりそうになり、彼女は必死で動揺を鎮めた。
 おかしなものだ。あれほど悩んだはずなのに、いざとなると何も浮かばなかった。憎しみも怒りも嫌悪も、ましてや殺意も何も。ただ、無性に懐かしくて、そのくせ目にする何もかもが新鮮だった。
 ゾロは何度か息を付いて、心底困り切った風に頭を掻く。今までこの男と言えば、苦々しい顔で睨みつけているところしか想像できなかったのが、今日は笑ったり、呆れたり、照れたりと意外な顔を見せている。驚きだった。
 「あのな」
 もう一度呟く。頷くと、ようやく決心したのか、口火を切る。話し始めは、相当に予想外のものだった。
 「ナミのやつが、俺と切れたからルフィとつき合うらしい」
 きょとんとして、とりあえず頷く。
 「……はぁ」
 「で、それをどう思うか俺に聞くんだ」
 また沈黙。ひょっとして、聞いた方がいいのだろうかと思い、今度は彼女から問いかけた。
 「どう思ったんです?」
 「ま、そりゃ色々、とな」
 寂しげな微笑から、話したくない類のものだと見当を付けた。と、同時に、それが意味するところに気づき、心臓がちくりと痛んだ。一拍遅れの理解と、どうして自分が動揺してしまうのか判らなくて混乱する。
 男は、彼女の様子に気づくこともなく言葉を続けた。
 「で、次に、お前が同じことをいいだしたら、どうするかって聞いてくるんだ。お前に好きなヤツが出来たから、もう俺のことは追わないって言い出したら、ってな」
 「そんなことは……」
 「俺もそう思った」
 腕を組んで、壁にもたれかかる。こちらを見ようとしない。多分、男は彼女から言われたことをそのまま想像してみたのだろう。黙っていると、目を閉じて、男は深い溜息を付いた。
 「で、またナミが、どう思ったかって。それを、お前……、たしぎに言いに行けっていうから、言いに来た」
 また沈黙。
 いよいよ困惑して、彼女は眼鏡の位置を調節しながらもう一度同じ問いを唇に乗せた。
 「で、どう思ったんです?」
 「ああ」
 本当に話しにくい類のものなのだろう。またしばらく沈黙して、酒を持ってくれば良かった、などということを小声で呟く。生憎、部屋には酔える類のものは置いてない。男は腕を組み替えることで、気持ちも切り替え、また口唇を開いた。
 「俺は多分、お前がそんなことを言い出したら、多分」
 一瞬の間。



 「 ──── お前を殺すだろうと思った」



 ひやりとしたものを滲ませた声音は、何処へも反射せず狭い室内に溶けて消えた。たしぎはすべての表情を削ぎ落とし、淡々と語る男の横顔を一欠片も逃さぬよう、見つめている。短く、男が歯の間から息をもらした。
 「お前がそんなことを言い出したら、きっとその場でお前を斬る。そうじゃなくて、お前が逃げ出したんだとしたら、何処にいても必ず探し出してお前を殺すだろうと思った」
 「わたしが、あれほど殺せと言っていたときは殺さなくて?」
 「……そうだな。」
 「言わなくなったら殺すんですか?」
 「 ──── ああ」
 彼女は立てた膝の上で、手を強く握りしめる。いつの間にか、両手は熱を失い冷え切っていた。心がざわめいて、止めることが出来ない。胸の奥で何かが形をとろうと暴れているのに、正体をつかめない。ただ、震える声を舌先に乗せた。
 「そんなの、矛盾してます」
 「俺もそう思う」
 また僅かに言いよどみ、男は頭を掻いて、空咳をする。
 「俺は多分これから先もずっと、お前は斬らない。お前には刀は向けない。他の男がお前に言うようなことも多分、言わない。何の約束もしないし、何も与えない」
 「……」
 「けど、お前は俺のものだ」
 初めて、その目が彼女を真正面から捉えた。
 「ずっと俺だけ追っていろ」
 「 ──── 」
 その言葉を最後の余韻に、部屋は再び静寂に満たされた。
 ゾロは自らが放った矢の行き先を、ただじっと眺めている。どう猛な肉食獣のように、あるいは人を堕落させる魔物のように、その瞳は力に満ちて輝き、彼女を誘っていた。ただの言葉であるものが、この男の唇から出た、ただそれだけの理由で、楔の如くに彼女の心に突き刺さる。
 憎しみの、あるいは否定の言葉しか聞いてないはずなのに、何故かその楔は心地よかった。あのとき触れた男の身体と同じように、熱く彼女を揺さぶる。同時に身体の奥でくすぶっていたものが徐々にせり上がってくるのを感じた。
 「 ──── ロロノア」
 その固まりに背を押される状態で、名を呟く。
 さすがに緊張しているのか、男が身じろぎした。と、部屋の明かりに反射して、男の虹彩に光が射し込む。
 理由を思いつくより早く、息が詰まった。
 喉元まで上がっていた何かは、口唇の奥で風に溶けて消えた。今まで、肩先にまで必死に張り巡らせていたものが不意に崩れる。急に可笑しくなって、くすくす笑った。
 続きなど、何処かへ行ってしまって思いつかない。いや、始めから考えなくて良かったのかも知れない。言うべき言葉なら、最初から持っているのだから。
 「あなた、人をまた馬鹿にしてますね」
 「……あ?」
 さすがに戸惑ったのか、男の片眉が跳ね上がる。無視して、彼女は言葉を続けた。
 「あなたが勝手に想像したわたしで、勝手に結論づけないでください。わたしの夢は、あなたの刀を回収することなんですよ。あなたが大人しく刀を差し出さない限り、わたしもわたしの夢を諦めません」
 「……この刀は渡せねえ」
 「だったら」
 大きく息を吸って、吐き出す。何かとんでもないことを言い出そうとしている自覚はあった。止めようとする気は起こらない。
 だから声は凛と響き、互いの間にあった最後の一欠片を押し流した。
 「渡す気になるまで、あなたを追い続けます」
 「何十年かかるか判らねえぞ」
 「かまいません」
 「死ぬまで放さねえかもしれねえ」
 「なら、あなたより一日でも長生きして、必ず奪い取ります」
 ゾロは不意に楽しそうな笑みを目元に煌めかせた。
 「死ぬまでか」
 「死ぬまでです」
 そして彼女も頬をゆるめる。
 「まあ、わたしがあなたをうち負かす方が先でしょうけど」
 「はん、言ってろ。まだまだ俺が上だ」
 「次は勝ちます」
 男の嘲りを無視して断言すると、興をそそられたのか身を乗り出してきた。布団の下で立てていた膝に大きな手を置き、それを引き寄せるようにそっと近づく。逃げたくはなかったのでじっとしていると、男は唇を彼女のそれに極限まで近づけ囁く。
 「 ──── もし俺が、刀をやるって言ったらどうする?」
 触れあわんばかりの位置で動く唇とその刃物を混ぜた声音に、ぞくりと身体が震える。
 「決まってるじゃないですか」
 たしぎは不敵に微笑もうとし、それに成功した。
 「刀ごと、あなたを斬るまでです」
 その返答に満足したのか、男は深い色合いの虹彩に、僅かながら笑みを滲ませる。光の加減からか、そうすると再び男の目が色を変えた。今まで黒としか見えなかったものが、明るい新緑となって煌めき、彼女の中にまっすぐ飛び込んでくる。その光は電流にも似て、網膜を焼き、脳髄を貫き、全身を痺れさせた。
 ようやく彼女はすべてを悟る。
 初めて男のまなざしに触れたときのことを思い出した。あのときも、彼女はこの新緑に息苦しさを覚えた。戦いの結果以上に、この瞳が忘れられなかった。それを悔しさだと、憎しみだと自分に言い聞かせて男を追い続けた。
 そう。

  ──── 思えば、初めて会ったとき既に、彼女はこの新緑に囚われてしまったのかもしれない。

 そして彼女は目を閉じて、すべての言葉を無に返す。
 大きな手がゆっくりと、その肌に落ちた。




 *****




 目が覚めたら、たしぎは寝台でうつぶせになっていた。
 右の端でほとんど落ちそうになりながら、サイドテーブルを見つめている。少しだけ方が寒かったので、布団を引き寄せ、頑固に一方方向だけを見つめ続けた。どうしてかと聞かれたら、他に見つめるものがないからだと答えただろう。とりあえず。
 彼女の周囲は静まりかえっていた。まるで、始めから誰もいないかのようだ。かなり明るくなった日差しと、遠くで鳴いている鳥の声が今この部屋の静けさを物語っている。恐る恐る、それでもある種の確信を持って、左腕を伸ばした。
 何にも触れないまま、彼女の手は柔らかな枕に落ちる。たしぎは振り返らないまま、一瞬だけ目を閉じ息を付いた。
 枕は冷たく、誰がいた形跡もない。
 それでも、誰かがいたという残滓を見つけたくて左手だけで周囲を探る。と、何かが指先に当たった。引き寄せて、それが一枚の紙切れだと知る。
 見ようかどうしようか、しばらく考えた。
 掌で紙を弄びながら逡巡することしばし、覚悟を決めて右手に持ち替える。

 それは、予想通り男からの手紙だった。

 内容は男の性格そのままに簡潔明瞭。ぶっきらぼうなことこの上ない。ただ、箇条書きに、朝一番の船に乗ること。鍵は鉢植えの下に置いておけばいいということ。酒を数本失敬したので、代金を立て替えてくれると助かるということなどが書かれている。
 そして、最後。
 一番下に書き足された文を読んで、たしぎは思わず笑った。
 そこは、他の箇所と異なり幾度も幾度も書き直され、真っ黒になっている。肝心の文と言えば、紙の際に小さな字で書き込まれ、苦戦した男の姿が想像できるようだ。つくづく寝ている場合ではなかったと思う。
 悪戦苦闘する男の姿なんて、そうそう見られるものじゃない。
 自らの感想に男がどんな顔をしてみせるか想像し、彼女はまた笑った。左手で小さな字を撫で、幾度も読み直す。やがて零れてしまった涙のせいで、字は読めなくなってしまったが、それでも唇だけは笑みを刻み続けた。
 時間を掛けて紙を畳み、抱き寄せる。
 自分のするべき事は判っていた。海軍に戻り、早退したことを詫び、適当な口実と反省文を作り、そしてまた任務に戻る。機会を見て、勤務地の異動を願い出、あの凶悪無比な海賊を追って、海の果てから果てまで駆け回るのだ。己に課した誓い通り。迷いはない。
 ……だから。
 彼女は畳んだ紙を心臓に近い位置に押し当て、身体を丸め、祈るように目を閉じた。最後に見た男の姿を思い浮かべる。何故かそれは背中だった。思えば、いつも彼女は男の背中ばかりを見ている。そればかりを覚えている。
 今もまた彼女はその背に、言葉を投げかけた。
 結局言えなかった言葉を、ただ一つだけ。


 「 ──── 気を付けて」


 今だけは、今はもういない男に届けばいいと祈りながら。
 今だけは、普通の女性のように。
 今だけは、恋人の無事を願いながら。



 そして彼女は、静かに泣いた。










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