蝶はどこへいった −4−
ててこ 様
〜 ルフィの涙 〜
初めて人を殺した時・・・・・・。
・・・・・・涙が止まらなかった。
自分が殺した男が無残な姿で倒れているそのすぐ脇で、ゾロは小川に身を浸しながら返り血でどす黒く染まった腕や顔を、何度も何度も洗った。
「ぐっ・・うっ・・・・くっ・・・」
涙が止まらずゾロの嗚咽は月夜の中、草原に静かに響き渡った。
何度洗っても取れない血と、皮膚が破れそうになるくらいこすっても消えない死臭がゾロの身体にくまなくまとわりついている。
ゾロはただひたすら泣きながら自分の身体を洗った。
――― もう戻れないのだ・・・・
――― もう、引き返せないのだ・・・・
心の中で自分の弱さを叱責するように、何度も何度も繰り返して言う。
(最強になるんだろう? 約束したんだろ?くいなの夢だろ?)
何度も何度も呟く・・・・。
これからは、こんなことは山のように起こるのだ。
命を懸けるしか強くなる方法はないのだ。
慣れろ!人を傷つけることや、殺してしまうことに・・・・。慣れるんだっ!
ゾロはもう二度と泣くまいと決心する。
心の奥のほうにある大事な部分に固く重い蓋をする。
強くなるということは・・・まず自分を殺してしまうことだ・・・・。
―― 豪雨のように浴びせられる返り血の中から、
悲鳴と怒声の喧騒の中から、恐怖と延命の嘆願の中から、
背中に突き刺さる呪いの言葉と、復讐を誓う叫び声の中から・・・ ―――
―― 強さはむごさの中からしか
生まれて来ない ―――
少年の瞳の色が次第に鈍く光るようになる・・・。
人間と言うのは恐ろしいもので・・・・。数をこなしていくうちに、ゾロはもう人を殺すことに抵抗がなくなっていく。
技が磨かれ、感性が研ぎ澄まされ、狂気じみた勘で急所を一太刀で切り裂いていく。
思う通りの太刀さばきができた時は思わずニヤリと笑ってしまう程に・・・・。
自分の髪が赤なのか、緑だったのか・・・それすらわからなくなるほど、刀を振り続ける日々が続く。
毎日・・・・毎日・・・・。
毎日・・・・毎日・・・・。
感情が磨り減っていくのが自分でもわかる・・・。
けだるい殺気を帯びた少年ができあがる。
不吉な黒い塊のような人間になっていく・・・・。
心のどこかでそんな自分を嫌悪し、否定しているもう一人の自分がいることに気づく・・・・。
しかし、それは自分の弱さのせいだと思い込む。
弱い人間は死ぬより他にないと、胸に刻み付ける。
こんな寒い時代なのだから・・・・
死ぬより他にないと・・・・・。
自分が一刀両断した男の足元に10歳くらいの女の子が駆け寄り、号泣して叫んでいる姿が見えた。
もう事切れてしまった血まみれの父の身体を何度も揺さぶりひたすら絶叫する。
「お父さんッ!!お父さんッ!!」
そして、キッとゾロを睨みつけると、およそ子供の声とは思えないほどの恐ろしい声で叫ぶ。
「お前のせいだッ!お前が殺したんだッ!!」
その時、心の奥にある蓋をしてしまって久しい何かが
コトリと揺り動かされた・・・。
(・・・・ダメだ・・・・。それに・・・・触れるな・・・・!)
ゾロの心が警告を発する。
少女が涙を千々に飛ばして叫ぶ。
「いつか殺してやるッ!お前を殺してやるッ!!」
ゾロは背筋が寒くなり、いたたまれなくなってその場を足早に立ち去った。
その背中に少女の声がなおも突き刺さる。
「お前が殺したんだッ!私のお父さんをッ!!」
別の声も聞こえてくる。
「私の主人を返してッ!!」
「わしの息子を返せッ!!」
四方八方から追い立てられる。
「・・・・私の恋人をッ!!」
「・・・・僕のパパをッ!!」
――― 殺したのは
お前だッッ!! ―――
「殺してやるッ!!」
まだ幼いあの少女にあんな恐ろしい台詞を叫ばせたのは自分なのだという事実が
容赦なく襲い掛かってくる。
ゾロは必死になって走った。走って走って、どこをどう走っているのかわからなくなって、何度も躓きながら、それでも立ち止まるのは怖くて・・・・。
そして、それは・・・・突然目の前に現れた。
ゾロはそこで走るのをやめ、肩で息をしながら、そのまま呆然と立ち尽くした。
「ハァ・・・ハァ・・・ハァ」
そこは小高い丘の頂上だった。
見覚えのある朽ちた教会が建っている。
説教台と十字架とその後ろの純白の美しい壁、それに連なる丸い天井・・・・・。
雲一つない晴天を背景に、その美しくも朽ち果ててしまった教会は
静かに建っていた。
ゾロは吸い込まれるようにノロノロとその教会に足を向ける。
十字架の前まで進むと、ゆっくりと天井を見上げる。
「・・・クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・」
―― 主よ どこへ行かれるのですか? ――
ゾロは懐かしそうに目を細め、その名を呟く。
世界に愛を説いた男と、それを心ならずも裏切り、贖罪のために命を捧げた男・・・。
――― 2人の男の一瞬の邂逅・・・・。
ゾロはゆっくりと右腕を上げてイエスの指に、自分の指を重ねようとする。
勿論身長の伸びた今でもそれに触ることなどできず、ゾロの指はむなしく空をまさぐるだけだった。
ゾロはそれでも求めて止まないように腕を伸ばし、心の中で呟く。
(・・・俺にお前達の強さをくれ・・・。何者にも負けない心根をくれ・・・・)
(もう一度十字架にかかってもいいと思うほどの強い使命感と、殺されるとわかっててローマに戻った覚悟を、俺にくれ・・・)
ゾロは歯を食いしばって、爪先立ちになりながら、腕を伸ばす。
そして堪えきれずに絶叫する。
「覚悟が欲しいんだッ!!俺はッ!!」
―― (・・・・本当に・・・・そうなのか・・・?)
(!!!!)
誰かの声がしてゾロはハッとなり、その声の主を捜した。
説教台の上に十字架を背にしょったルフィが座って自分を見ていた・・・・。
「・・・・・・・・・・ルフィ・・・。」
ゾロは驚いた顔をして、思わずその男の名を呟いた。
ルフィがもう一度ゾロに聞いた。
「・・・・・本当に・・・・そうなのか?」・・・・と。
フッと・・・・・目を開けると、見慣れぬ天井が目に入った。人の気配がしたので
ゆっくりと瞳を動かし横を見る。
ルフィがニッコリと笑って自分を見ているのが暗がりの中でもわかった。
「どうだ?大丈夫か?」
彼にしては控えめな声でゾロに聞く。
ゾロは何か答えてやろうと思うのだが口が重くて言葉が出てこない。
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
その時、ルフィがポツリと言った。
「・・・・・・指に触れたか?」
ルフィは笑みを絶やさない・・・。
なぜルフィが故郷の教会のことを知っているのか、そしてそこに描かれている人物の指に、自分が触れてがっているのをどうして知っているのか・・・・熱くてボンヤリする記憶の中で、ゾロは少し考えたがもうどうでもよくなって、ゆっくりと首を左右に一回だけ動かした。
「・・・・そうか。・・・・ゾロ・・・触れてどうしたいんだ?」
ルフィはまた聞いた。首を振ったのでずれてしまった額の上のタオルを元に戻してやりながら・・・。
「・・・・・覚悟が・・・・欲しい・・・」
ゾロは掠れた声で呟いた。大きく息を吸い込み、それを吐き出すように言う。
「覚悟が・・・欲しいんだ。あの2人のような・・・」
「・・・・・・・・・・・・・。」
ルフィはしばらく黙っていた。そしてふといつもと同じ調子でこう言った。
「・・・・・・・・本当にそうなのか?」
聞いたことのあるその言葉にゾロは首をめぐらしルフィの顔を見つめた。
ルフィはニコッと笑って断言する。強い声で・・・。
「嘘だ。お前、自分をごまかしてる・・・」
「・・・・・・・・・・・・。」
ゾロは信じられない面持ちでルフィの笑顔を見つめることしかできなかった。
その瞬間、彼の心の中で警報がうなりを上げて、鳴り響く。
(ダメだ・・・ルフィ・・・。・・・それ以上言うな・・・)
ゾロは思わず固く目をつぶる。
(・・・ダメだッ!言うなっ!!)
それでもなおルフィは容赦なく続けた。
「お前は覚悟が欲しいんじゃない。そんなものはもう持ってるから・・・・」
「・・・・・・・・・・・。」
「お前は・・・・・ただ・・・」
(・・・・・・・・・ただ?)
「・・・あの2人に・・・・」
(・・・・・・・・あの2人に?)
「――― 許して欲しいんだ。 ―――」
――― あぁ・・・・・―――
ゾロはその言葉を聞いて唇をかみしめた。
目頭が熱くなり目じりから涙か一つぽとりと伝え落ちた。
乾いた唇から嗚咽が漏れる・・・・。
「・・・・・許して欲しいんだ。・・・・お前は」
ルフィはなおも続ける。
ゾロはぼやけた視界の中で天井を見つめながら、コクリと小さく頷いた。
涙がまたひとつ零れ落ちる。
「・・・・・・あぁ・・・そうだ・・・。俺は許して欲しかった。
あの男達に今までやってきたことや、これからするであろうことを・・・・」
「・・・・・・・許して欲しかったんだ・・・・・。」
ゾロは腕をあげ、それで自分の目を隠すように覆い、嗚咽をかみ殺しながら答えた。
故郷の朽ちた教会に足繁く通うようになったのは、くいなが死んでしまってからだ。
世界一の剣士になろうと決意してからだ。
幼心にもそれが何を意味するかわかっていたから・・・・。
自分はこれから血塗られた道を行くのだ・・・。
他人の命を奪いながら前に進んで行かなければならないのだ・・・・。
幼いゾロは・・・・これから自分がするであろうことへの ―――
――― 許しが欲しかった。
求めて・・・・やまなかったのだ・・・・。
自分を押し殺してきた。
許しを請うことは弱い人間のすることだと思っていた。
心のずっと奥の方に長い間、蓋をして鍵をかけていたものを、ルフィはするりとその中に入り込み、いとも簡単に外してしまった・・・・。
ルフィはゾロに言い聞かせるように話を続ける。
「知ってるか?ゾロ・・・」
「人間は泣きながら生まれて来るんだぞ・・・・」
「身体一杯使って、泣き叫びながら赤ん坊は生まれてくるんだ!!」
「・・・・人間はな、生まれてから死ぬまで他の生き物の命を奪って生きていかなきゃならねぇ・・・。自分では何も産み出せないから・・・」
「.どんな偉ぇ奴でも、どんな強い奴でも食わなきゃ死んじまう・・・」
「人間は生きていくこと自体が罪だ」
ルフィは真面目な顔をしてゾロを見下ろした。
「だからな!人間は産まれた瞬間泣き叫んで、許しを請うんだ!産まれてきてすまないって!これから命をたくさん奪うことになるけどすまないって!ほれ、俺なんか肉好きだし、人の10倍は食ってっから、えれぇ泣き声だったと思うぜ!!」
ちょっと照れくさそうに笑ってから、今度は真顔になって言う。
それでも、優しい声で、優しい顔で・・・・。
「・・・・許しを請うのは・・・人間の本質だ・・・」
「・・・・・・・・恥ずかしいことじゃねぇぞ・・・・・・・」
その言葉を聞いて、ゾロは心の中にのっぺりと貼り付いていた黒く蠢く何かが、
音をたてて剥がれていくような気がした。
気持ちがすっと軽くなる。
それと同時に涙が止まる。
「それでもな、ゾロ!人間は泣きながら産まれた次の瞬間には・・・・
――― 笑うんだぞ!!」
「そりゃあ もう 嬉しそうに・・・・
――― 笑うんだ!!」
ニカッ!!
ルフィはゾロに向かって本当に嬉しそうに笑ってそう言った。
ゾロは思う。
―― お前みたいにきっと無垢に笑うんだろうな ――
ゾロは小さいがしっかりした声でルフィに尋ねる。
「・・・・ルフィ?」
「ん?」
「・・・・・お前・・・・俺を許してくれるか・・・?」
「あぁ!!」
ルフィはどんと胸を打って力強く頷いて答えた。
そして今度は反対に聞く。
「お前は俺を許してくれるか・・・?」
ゾロは口の端を少し上げて頷いた。
そうだな・・・お前も『戦う人間』だったよな・・・。
お前だって・・・・辛い時間があったはずだよな・・・。
「・・・・あぁ。許してやるよ・・・。」
ゾロはそう言うと、安心したように一度深呼吸してから呟くように言った。
「・・・・俺はもういい・・・。お前が許してくれるなら・・・
それでもう十分だ・・・。」
「・・・・・もう・・・・十分だ・・・・・」
そしてゆっくりと瞼を閉じた。
ひどく深い眠りに落ちていくような気がした。
ルフィは眠ってしまったゾロのすぐかたわらに、ベッドの脇に立てかけていた3本のうちの白い刀1本を、置いてやった。
そうしてやるのが一番良いと思ったから・・・・。
そして呟くように言う。
「・・・こういう時間が必要ななんだよ・・・俺達みたいな道を選んだ奴には・・・・・」
ルフィは自分の目を腕でゴシゴシと乱暴に拭った。
「でも・・・もう一人じゃねぞ!」
ポタリ・・・・
涙が落ちる・・・。
「もう、一人じゃねぇぞ・・・・お互いにな・・・」
ルフィの涙から黒い蝶が姿を現す。
それはヒラヒラとゆっくり舞って、ゾロに告げる。
「せかいがゆがんでいるのは おまえのせいだ」
(そうだ・・・その通りだ・・・。だから・・・・)
〜 終着駅にて 〜
ゾロはもう3本も列車をやりすごしていた。
列車が入ってくる度に乗らなくては、と思うのだが腰が上がらない・・・・。
足が動かない・・・・。
誰もいない広いだけの地下のプラットホームにしつらえてあるベンチに一人で
座り込んで、彼は無言のまま入っては、また出て行く列車を見送るばかりだった。
(・・・・ここはどこだろう・・・・)
少し湿気のこもった黴臭い空気の中、ゾロは改めて辺りを見わたす。
なぜ自分がここにいるのか、ここがどこなのか知る由もない。
目を左の方にやると、大きなトンネルが漆黒の口を開けており、そこから列車はやってくる。
そしてこのホームで停まり、しばらくするとまた列車は来た道を今度はバックして戻っていく・・・・。
ここは終着駅であり、始発駅らしい・・・・・。
列車は流線型の美しいものだったり、古びた真四角の鉄の固まりのようなもの
だったり・・・・・。
しかし、共通するのはどの列車も車内はとても眩しくて、目を向けていられないほど明るいということだ・・・。
人が乗っているのか、無人なのか・・・・それさえも判別できない。
漆黒のトンネルから光を内包する列車がやってくる・・・・。
そんな不思議な場所でゾロはベンチに腰を下ろし、ただ無為に時間を過ごしていた。
(よし・・・。今度の列車には必ず乗ろう・・・)
心の中で決心をする・・・・。
すると・・・・・。
いきなり隣から声をかけられた。
「・・・・剣士さんなの・・・?」
ゾロはびっくりして自分の隣を見た。
そこには、いつの間にか女の子が座っていた。
足がホームに届かないのか、ブラブラと前後に揺らしている。
利発そうな黒髪の女の子だ。
半そでの白いワンピースを着ている。
「・・・・・・・・・。」
ゾロはしばらく少女を黙って見つめるだけだった。
「剣士さんなの?」
少女は今度はゾロの顔を見上げて同じ台詞で聞いた。
「・・・あっ・・・あぁ・・」
ゾロはとまどいながらも答える。
すると少女はすぐに聞き返してきた。
「強いの?」
「どうかな・・・。強くもねぇし・・・弱くもねぇし・・・」
ゾロは少し苦笑しながら答えた。
「たくさん・・・・殺してきた・・・?」
少女は少し間を置いて聞く。
「・・・・・あぁ・・・。生きるために言い訳にしては・・・・殺しすぎたかな・・・」
自分の手のひらに視線を落とす。
「どうして・・・?」
「強くなりたいからだ・・・。誰よりも強く。世界最強に!」
「なぜ、最強を目指すの?」
「なぜって、それはお前とのッ・・・・!!」
ゾロはムキになってその少女の方を向いて思わず怒鳴った。
そして・・・・
「・・・お前・・・・との・・・・約束・・・だか・・・ら・・・」
ゾロはその時になってようやくその少女がくいなであることに気づいた・・・・。
くいなはゾロの顔を眩しそうに見上げてから少し困ったように微笑んだ。
「・・・・・私の・・・・ため・・・?」
「そう・・・。そうだ・・・。約束だし・・・・約束を破ったら、お前、俺の中からいなくなっちまう・・・。」
「本当に死んでしまう・・・。」
ゾロは説明するように答えた。
「・・・・・・・・・。」
くいなはそれを聞くと無言のまま俯いて、ブラブラと動かしている自分の両足に視線を落とした。
そしてピョンとベンチから飛び降りると、スタスタと歩き出した。
ゾロは慌ててその後を追った。
「列車が来るの。乗らなきゃ・・・」
くいなは独り言のように呟いた。
ゾロはくいなの隣に並ぶようにして歩く。
2人がホームの端まで来た丁度その時、トンネルの中から光の列車が突然現れた。
黒い鋼鉄の重々しい車体・・・。今度の列車は汽車だった。
ブォーッ!と白い煙を上げながら、汽車は2人の目の前に滑り込んできて、重い音を響かせながらゆっくりと止まった。車体の軋む音が余韻となって響きわたり、白い蒸気が車両とホームのわずかな隙間から、もくもくと立ち登ってきた。
ゴトリ・・・・。
古びた重い音をたてて、汽車のドアが揺れながら開いた。車内は眩しい光で包まれている。
くいなはごく当たり前のように車内に足を踏み入れた。
ゾロがその後に続こうと片足を上げた時、くいながこちらに向き直り、ぐっと片腕を伸ばして手のひらをゾロの胸元にかざし、そしてはっきりと言った。
「あんたはダメよ。ゾロ・・・。まだ乗れないわ・・・」
「・・・・なぜだ?」
ゾロは上げていた足をホームに下ろし、尋ねた。
その問いには答えず、くいなはゆっくりと話し始めた。
少し懐かしそうな顔をして・・・・。
「ゾロは水溜りの中をワザと歩くの好きでしょ?」
ゾロは一瞬何のことかわからず、ただ黙って聞いてる他なかった。
くいなは続ける。
「ゾロはうさぎの目が赤いのはにんじん食べてるからだと思ってるでしょ?
ゾロは雨上がりの蜘蛛の巣に水滴がたくさんついているのを綺麗だと思うでしょ?」
(・・・・・・あぁ・・・・・・)
ゾロはしだいにくいなが何を言いたいのかがわかってくる。
くいなの問いかけに何度も何度も頷く。
「ゾロは打ち上げ花火を下から見たいと思ってるでしょ?ゾロは台風が来ると胸がワクワクするでしょ?」
「・・・・・それは、みんな・・・」
くいなは少し間を空けてから、優しくゾロを見上げて言った。
――― 「・・・・私が大好きだったこと!」
「あぁ・・・そうだ。・・・そうだったな・・・」
「それはみんな、私がゾロの中に生きているって証拠!剣以外でも私はゾロの中で確かに生きてる!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ゾロは胸が一杯になる。嬉しくて泣けてくるくらいに・・・。
―― どうして今まで気づかなかったんだろう・・・・?
―― どうして今まで彼女の『死』を受け止めて
やれなかったのだろう・・・?
「私の代わりにならなくていいのよ・・・ゾロ。私を自分の人生に引き受けなくていいのよ・・・」
「そんなことしなくったって、私はちゃんとゾロの中で生き続けているから!」
「雨が止むと私を思い出すわ!ウサギを見ると私を感じるわ!花火を見て私を懐かしく思うわ!」
「人はそうやって繋がっていけるものなの・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・。」
ゾロは泣き笑いの表情になる。
それを見て、くいなは優しく笑うと、あげていた手の平をゾロの胸にピタリとひっつけた。
そしてしっかりとした声でこう締めくくった。
――― 「・・・・私はここにいる。」
「くいな!!」
ゾロがそう叫んでくいなの手を掴もうとした時、くいなは軽くゾロの胸を押した。
ゾロは2〜3歩後ろによろめいた。
「彼女が泣いてるわ・・・・。帰ってあげて・・・。」
「!!」
ゾロは一瞬ハッとなって思わず後ろを振り返った。
――― オレンジの香りがしたような気がする。
その刹那 ――
汽車のドアが重い響きをあげてゆっくりと閉まった。
―― ガタン・・・・。
「!!」
ゾロは慌ててドアに駆け寄り拳でドアを乱暴に叩いた。
ドン!ドン!ドン!
「くいなっ!!くいなっ!!」
大声で叫ぶ。しかし光の中にくいなの姿は溶けてしまいもう見えない。
――― シューッ
蒸気が出る音がして、ピッーという甲高い汽笛がホームに鳴り響くと、
汽車はゆっくりと動き出した。
「くいなっ!教えてくれっ!くいなっ!」
ゾロは動き出した汽車に寄り添うように歩き出す。
しだいにスピードが増す汽車に追いすがろうとゾロも足早になる。
「くいなっ!くいなっ!」
しだいに駆け足になり、それもつかの間、全速で走らないと
追いつかなくなっていく・・・。
汽車は容赦なく漆黒のトンネルに吸い込まれていく。
「くいなっ!教えてくれっ!どうすればいい?俺はこれからどうすればいいっ!?」
ゾロの視界がゆるむ。
涙が後方に流れていく。
何度も躓きそうになる。でも無理矢理体勢を立て直し、汽車に必死で追いすがる。
汽車の加速度が増し、ゾロはどんどんおいていかれる。
「もう長いことお前と一つになっていたんだ!今さら俺一人で何ができるっていうんだっ!」
「世界で一番強いってどういうことなんだ!強くなるってどういうことだっ!!」
ゾロは必死になって汽車においすがり、泣きながら叫んだ。
「くいなっ!!俺はどうしたらいいんだっ!!」
その時汽車の一つの窓がガタガタと開く。
中から身を乗り出すようにして、くいなが現れた。
風でくいなの髪が千々に乱れる。
くいなは両手をさしだすように伸ばすと叫んだ。
「ゾロ!!」
そして、笑顔を向けて、力強くこう言った。
――― 「未来を掴め!!」 ―――
そして彼女の姿はあっと言う間に見えなくなった。
汽車はトンネルの中にドンドン吸い込まれていった。
トンネルの中から、くぐもった汽笛の音だけが静かに聞こえてきた。
――― 静寂と沈黙がまた訪れる・・・・。
ゾロはゆっくりと立ち止まって、その場にがっくりと膝を落とし、そのまま両手をホームの上についた。
ゾロの涙がホームの上に不規則なしみをつくっていく。声をだして泣いた・・・。
泣けて、泣けて、どうしようもなかった・・・・。
未来を生きてきたことなどなかった。
明日は今日の延長線で、自分の足元に新たな死体が転がるだけの日常でしかなかった・・・。
未来なんてこの両手はもう掴めないと思っていた。
この両手は血でどす黒く染まって久しい・・・。
――― それでも・・・・
まだこの両手は、未来を掴めるというのか・・・?
俺はあの未来を掴んでもいいのか・・・?
ゾロは顔を上げて、くいなを連れ去った汽車が吸い込まれた漆黒のトンネルを見つめた。
そしてゆっくりと立ち上がる。
こぶしを作って手の甲で涙を拭きながら天井を見上げる。
――― ならば・・・・・
自分に言い聞かすように呟く。
――― 「・・・生きなきゃ・・・」 ――― と・・・
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