ナミの顔を一目見るなり店主は言った。
いつか来られると思っていましたよ、と。
愛のある島2
act8:取引T
ルフィが沈んでいった海域に浮かぶ島。
青というよりも、空色をした海はどこまでも澄んでいて、海面には穏やかに浅く白い波頭が立っている。さんさんと降り注ぐ太陽の光は波間に反射してキラキラと輝く。そしてその向こうには、白い砂浜が広がっているのが見える。
しばし既視感にとらわれた。
その島は、カテドラルアイランドの片割れの島―――ナミの別荘がある島に似ていた。
夏島らしく浜にはビーチパラソルがあちこちで鮮やかな色で咲いている。
もっとも、夏の海の風景というのは、どこでも同じものなのかもしれないが。
浜から遠浅の海に突き出た木製の桟橋の杭の一つに船を繋いで、ナミとサンジは降り立った。
久しぶりの上陸だ。
柔らかな風が桟橋を歩くナミの白いサンドレスの裾を軽やかにひるがえすのを、サンジはナミの後ろから眩しそうに眺めていた。
今日のナミの服装は、今回の旅の中で一番女らしい装いであった。船上ではナミはいつもGパンか短パン姿だったのだ。
やはり船の上では自分を警戒していたのかな、とサンジは心の中でため息をつく。
でもだからといって、陸の方が安全というわけでもない。ナミも自分も賞金首、海賊であることには違いなく、どこで賞金稼ぎや海軍に目をつけられるか分からない。
そんなことを考えていたら、いつの間にか前を歩いているナミの姿を見失っていた。
辺りを見回すと、ナミは浜辺に建つ簡素な小屋で商いをしている腰の曲がった老女に何か尋ねているところだった。そして、老女にひとしきり礼を言ってチップを渡すと、ナミはサンジの方を振り返り、手を上げて微笑んだ。
「場所、分かったわよー。」
「ルフィの麦わら帽子」を持っているという店のことは、浜の商店の老女でも知っていた。
どうやら、この島では公然の秘密であるようだった。
***
その店は、浜辺から街へと続く一角に建っていた。
野太い材木を使って造られたログハウス。経年変化ですっかり黒ずんでいる。
真ん中の正面にはスイングドアが設えてあり、それを押し開いて中に入る。外の明るさに馴染んだ目には店内がひどく薄暗く見えた。
段々と目が慣れてくると、7、8個の丸テーブルにカウンターのある見慣れた酒場の様子が見て取れた。
店内には、客は一人もいなかった。
もっともこの店が活気づくのは、おそらく夜になってからなのだろう。
物音に気づいたのか、店の主人らしい人物がいらっしゃいと小声で呟きながら奥から出てきた。
少し太めで、総白髪の血色のよい赤ら顔のいかにも好々爺という風情の男が、人の良い笑みを浮かべている。
ナミの顔を一目見ると、目を細め、顔に皺をいっそう深く刻み付けて言った。
「いつか来られると思っていましたよ。」
ゆったりとした口調と柔らかな声音で、表情は変わらず笑っているが、細い瞳には抜け目のない光が宿っている。
店主は恭しくナミ達をカウンター席へと手招きした。
「私のこと、知ってるの?」
「何になさいますか?」
ナミが問いかけたにもかかわらず、店主はその問いを無視し、すぐに注文を取ろうとした。
サンジが内心ヒヤッとしながらナミをの様子を伺うと、ナミは少し気色ばみながらもおとなしく席につき、すぐに勝気な視線を店主に向けた。
「では、この店で一番アルコール度数の高いお酒を。」
そうして出された酒はウオッカ。度数は96度だという。
(こりゃ酒というよりも、ほとんどアルコールじゃねぇか)
それを平気で飲むナミを横目に、サンジはグラスの中の液体を一舐めしただけで口をへの字に曲げる。
店主はナミに2杯目を注ぎながら口を開く。
「麦わら海賊団の中でも、とりわけ貴女のことはよく存じておりますよ。ルフィの奥様ですからね。」
先ほどのナミの質問への返事を、唐突に話し始めた。
サンジは店主が「ルフィ」と呼び捨てにしたことがどうも気に食わず、わずかに眉をひそめながら聞いていた。
「いつかはあの帽子を取り戻しに、ここへ来られると思っていました。」
店主の読みは正しい。そうだ、俺達はそのために来た。
事情を聞いて、帽子の真偽を確かめ、そして取り戻すために。
もしもこの店主が本当に麦わら帽子を託されたとすれば、ルフィと浅からぬ関係があったはずで、更にそれが良好な関係だったとすれば、彼がルフィを呼び捨てにしてもおかしくないということになる。
「麦わら帽子のこと、どこからお聞きになりました?」
「海軍から。海軍がうちまで来たの。あなたがルフィの帽子を持ってるって。その帽子のことで、いろいろとあることないこと言い触らしているそうね。」
そう挑発的に言っても、店主は特に表情も変えず、ただ黙ってナミを見返している。
どうも一筋縄でいきそうにない。
ナミは酒が注がれたグラスを脇にどけて、いよいよ交渉の本腰に入るといった風に言葉を続けた。
「一体どうやって手に入れたの?」
「もちろん、本人から貰いました―――いえ、忘れ物、と言った方が正しいですかな。」
4年前のあの日、ルフィは、ちょうどナミ達が上陸した浜辺に打ち上げられていたという。
「うつ伏せに倒れていて、てっきり死んでいると思いました。この海域では大きな渦潮が前触れもなく起こるので、遭難者も多いんです。土左衛門が上がることもしょっちゅうですから。しかし、彼は生きていた。かすかに息があったんです。それで慌てて店に連れ帰り、看病したというわけで。高熱を発してもうダメかと思いましたが、一週間ほど生死をさまよった後、彼は蘇った。それからはこちらが驚くほど食べて、見る見るうちに元気になっていった。」
店主の話を聞いているうちに、サンジはルフィが大渦に呑まれていったときのことを思い出した。
あの時。その直前まで、ルフィは海軍将校と最後の一騎打ちをしていた。そして敵の止めをさす一撃を放った後、ルフィは糸の切れた凧のようにボトリと海に落ちたかと思うと、逆巻く潮に呑み込まれていった。
サンジもゾロも重傷を負い、手近にあった木切れに掴まり辛うじて浮いている状態で、沈みゆくルフィを目にしながらも何もできなかった。大自然の脅威の前では、なすすべもなかった。
店主が語っていることが事実だとすれば、ルフィは海に沈んだ後、どうにか浜に打ち上げられ、生き延びていたということになる。
ルフィは生きているのだと、今初めてそれを裏付ける証拠―――麦わら帽子―――とともに語られている。
「ルフィは一ヶ月ほどこの店にいましたが、ある日朝食の後いつものように出かけて、それっきり戻ってきませんでした。この帽子が店に残されることに気づいたのは、彼が旅立ってからです。どうして、と思いましたが、私は彼がお礼にのつもりで置いていったのではないかと思ったんです。」
「礼?」
ナミが怪訝そうに問い返す。
「はい。彼を助けたお礼です。私のことを命の恩人とでも思ったのかもしれません。」
「・・・・。」
「ルフィは貴女のことを、よく話してましたよ。会いたいって。」
てっきり貴女の元へ帰ったのだと思っていましたが、と店主は言った。
それに対し、ナミは硬い表情をして気まずそうに顔を背ける。
いまだにルフィは、帰ってきていないのだから。
その事実を知っているのだろう、店主は黙り込んだナミを同情の篭った瞳で見つめる。
「きっとそう遠くない日に、貴女のところに姿を現しますよ。」
「もうやめて。」
気休めのようなセリフに、もうこれ以上は聞いていられないとばかりにナミは目を伏せた。
やがて小さくため息をつくと、気を取り直したように顔を上げた。
「その麦わら帽子、どうして海軍に差し出さなかったの?任意提出を求められたんでしょう?そのうえルフィの帽子だとも認めなかったとか。」
ナミのその指摘を聞いて、そうだったとサンジも思い出す。
店主は客にはルフィの帽子だと語りながら、海軍にはその事実を否定したのだ。
どういう真意でそうしたのか、店主の腹が読めない。
「海軍に渡したからといって、確実に貴女の元へ返されるという保証はありますか?途中で破棄されてしまうかもしれない。たとえいつか届くとしても、何十年後になるかも分からない。それぐらいなら、私が直接ルフィか貴女に返したいと思っていました。」
「では、返してください。」
ナミは感情のない声でそう言って、まっすぐに店主に向かって左手を差し出した。
一瞬、店主は虚を突かれたようにナミを見て、次いで唇の端を歪めた。そうすると、好々爺の仮面が一気に剥がれ落ちた。
「その前に、一つ相談があります。」
人指しを一本立てて片目をつぶる店主に、ナミは目顔で先を促す。
「今この店はこの麦わら帽子でもっているようなもので。この帽子見たさに世界中から客が訪れて、おかげでたいそう店が繁盛してるわけでして。つまりこの店からコレが無くなりますと、こちらとしては大きな痛手となります。」
「・・・・・何が言いたいの?」
「このまま、この帽子をここでお預かりすることはできませんかね?」
「それはできないわ。私にとっても大切なものなの。」
「いやいや、おっしゃるとおりです。しかしそうなりますと、こちらとしても何か代わりのものが欲しくなりますな。」
「つまり?何らかの代償を払えってことね。」
「たいそう話の分かるお方だ。さすがルフィの奥様ですな。」
店主は手を叩かんばかりに顔を綻ばせる。
ナミもまるで調子を合わせるかのように、いつにない柔らかい微笑みを浮かべた。
「分かったわ。その帽子を返してくれるなら、言い値をお支払いしましょう。」
「ちょ、ナミさん!」
今まで黙って聞いていたサンジが慌てて静止する。
いくらなんでも言い値だなんて。
物腰は柔らかいがこのオヤジ、ここまでのやり取りで腹にイチモツ抱えていることは明らかだ。
ナミさんだって分かってるハズなのに。
そんなヤツに金を払うだなんて。
我慢がならず、とうとうサンジが口を挟む。
「読めてるぜ、テメェの腹は。海軍へ帽子を渡さなかったことには一見筋が通っているように聞こえるが、要はただ海軍に返したのでは金にならないからだろ。手元に置いておけば、噂だけで人々がやってくるわけで、格好の客寄せになるってわけだ。そして、いつかナミさん―――ルフィに縁ある者―――が帽子を取り戻しにきたら、その時はたっぷりと代償をもぎ取るって寸法だ。」
まくし立てたサンジの言葉にも、店主は小バカにしたようにフンと鼻を鳴らす。
「この際、私が善良であるかどうかは問題ではないんじゃないですか?要はあなた方が本気で帽子を取り戻したいのかどうかだ。取り戻したければ、当然出すもの出してもらいませんとな。」
(ちっ、本性剥き出しにしやがった。この腹黒め)
「力づくって手もあるぜ?なんせ俺達は海賊なんだからな。」
「私を倒したら、帽子の在り処も分からなくなりますよ?」
「ハッ! 下手なハッタリしなさんな。家捜しすりゃ、どうせすぐ見つかるに決まってる。」
「待って、サンジくん。」
店主と睨み合うサンジを、ナミは彼の腕に手を置いてやんわりと止めた。
サンジは勢いを殺がれ、気まずそうにナミを見やる。
「コトを荒立てたくないの。再入国できなくなってしまうわ。」
カテドラルアイランドへは世界政府下での犯罪歴を一度リセットして移住できるが、その後の再犯に対しては厳しい。
即刻、国外追放。
楽園を追われた者はもう二度と戻れることはない。
人生のやり直しのチャンスは、一度しかないということだ。
ナミの言うことを理解して、サンジはチッと舌打ちをしたものの、もうそれ以上は何も言わなかった。
店主はコホンと芝居がかった咳払いをし、再び薄っぺらい笑みを顔に張り付かせてナミに向き直った。
「では早速、取引とまいりましょうか。」
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