長期間の冬季休暇もいよいよ終わりが近づいてきた。
明日には、ゾロはまたもや王都から遥か遠く、
ノースウッドの軍人仕官学校に向けて旅立たねばならない。
誓い −11−
明朝の出発に備えて、ゾロは自分の部屋の真ん中に座り込みながら荷造りをしていた。
ゾロの周りには詰め込まれるべき書籍や衣類があちこちに散乱している。
しかし、実をいうと、荷造り作業は遅々として進んでいない状況だ。
一冊本を手にしては、しばしボーッとし、また次の衣類を手にしては深い溜息をつく。
なぜなら、繰り返し頭の中で、昨夜のキスの感触を反芻しているからだ。
そうしてないと、ナミとのキスの感触は春の淡雪のようにアッという間に消えてしまいそうだった。
何度も何度も思い出しては、身体中がムズ痒くなり、時として大声で叫びだしたくなる。
手近にあったクッションにふと目が止まる。
それを取り上げ、ナミの顔に見立てて、目の前に掲げる。
ええっと、こんな感じだったかな?と、顔を少し斜めにして、クッションにゆっくりと顔を近づけた。
ポフッとナミの唇とは違う、布地の感触がゾロのそれに触れた。
「あなた・・・・、何してるの?」
その瞬間、呆れ帰ったような声が投げかけられた。
ゾロはバッとクッションから顔を離した。と同時に顔に見る見る朱が上ってくる。
取り繕うようにクッションをバシバシと拳で叩いたりしてみせたが、後の祭り。
よりによってなんてシーンを見られたのか!
「く、くいな!勝手に人の部屋に入るなって!」
ゾロの部屋のドアに佇んでいるのは、ゾロの姉のくいなだった。
「何言ってるの。ドア、開けっ放しだったわよ?」
そう言い返されて、ゾロはますますバツが悪くなった。うっかりドアを全開にしたまま荷造り作業をしていたらしい。
「で、何してたの?」
くいなの追求はなおも続いた。
咄嗟に、いやちょっとこのクッションは洗濯に出すべきか匂いを嗅いでた、などという苦しい言い訳をしてしまった。
それを聞いて、くいなはいっそう怪訝そうな顔をした。普段、物の洗濯の必要性など省みたりしたことがないゾロがそんなことを言うなんて信じられない、という表情だ。
「そうなの?私、てっきり、キスの練習でもしてるのかと思った。」
と、次の瞬間には朗らかに笑い声を立てながらくいなは言った。そして、でもゾロがまさかね、とも付け加えた。本人は冗談のつもりで言ったらしい。
実を言うと、当たらずとも遠からず。さすが我が姉。
「ところで、何でくいながここにいるんだ?」
ゾロは話を逸らした。
もっとも、これは訊かなくてはならない質問だった。
ゾロとくいなは2歳違いの姉弟だが、くいなは昨年に他家へ嫁ぎ、もうこの家の者ではない。
そのくいなが、なぜここにいるのか。
「何でって、明日に旅立つ弟への挨拶に決まってるじゃない。」
そう言われて、そうか、それはどうもとゾロはポリポリと頭を掻く。
「義兄さんも一緒に?」
「そうよ。下でお父様と話してるわ。私はあなたを呼びに来たのよ。」
1階の応接室へ行くと、義兄と父親が熱心に話し込んでいた。
「では・・・・、王が他国から妃を迎えるよう要望されてるというのは本当なのですね。やはりアラバスタですか。」
義兄の声は男性にしてはトーンが高く、ドアのそばに立つゾロ達にもその話声が聞こえた。
二人のそばまで近寄っていくと、会話の内容が分かった。ルフィのお妃選びについてだった。
「アラバスタには今年13才になる王女がいる。歳まわりも丁度いいし、王はぜひ王太子妃に、と求められたようだ。後顧の憂いを断つにもそれが一番だろう。」
と、今度は父の声。
地図で見ると、とある国は、隣国とアラバスタ王国とで挟まれた形になっている。
歴史上、隣国とは昔から戦が絶えない。今は停戦条約で休戦しているが、辺境はまだまだ一触即発の状態で、いつ戦火が上がって全面戦争に突入するかも分からない。
とある国が隣国との戦いに専念したい時に、背後のアラバスタから攻められては堪ったものではない。
隣国とアラバスタの両方の国と戦闘状態に入るのは、防衛上、非常に拙い状態だ。戦力が分散し、国はすぐに疲弊してしまうだろう。それを避けるため、アラバスタと婚姻によって同盟関係を結んでおく。そうすれば、隣国といつ戦闘が始まっても、背後から襲われたり、寝首を掻かれる心配が無くなる。
アラバスタ自身も近隣国との戦争に晒されており、決して政情が安定しているとはいえない。その上とある国との戦争などもっての他だ。だから、この婚姻による同盟はアラバスタにとってもメリットがあるのだ。つまり、王女はいわば人質としてとある国へ嫁いでくることになる。
そんな義兄と父の話から、ルフィが政略結婚をさせられようとしているのだと分かった。
ふと舞踏会で見た生気のないルフィを思い出す。王太子になったこともルフィの意思ではない。
そして、結婚にもルフィの意思が介在することはない。どこまでもルフィの思いとは別の思惑で彼の人生は決まっていくのだ。他人の敷いたレールに従順に乗っていくほかはない。
「あの人はね、お義姉様を後宮に納めたいと考えているのよ。」
突然そう言って、ゾロに囁きかけるくいなの声には、どこか険があった。
「だから、お父様から情報収集をしようと必死なの。」
「・・・・その縁談に反対なんですか?」
「当然よ。お義姉様、一体おいくつだと思う?」
ルフィが今年15になるから、同い年か、前後1、2歳かそこらか?
と、ゾロが思案する間も与えず、くいなが答えた。
「25よ。王太子殿下もだけど、お義姉様だって気の毒過ぎるわ。」
10歳差か。それは確かに。ルフィがそんな年上の女性と連れ添っている姿は想像できなかった。
しかし、貴族では年齢が離れたカップルはそんなに珍しくも無いのだが。
「しかし、他国から妃を迎えるのは、近年では無かったことですよね。どうしてまた急に。」
「急でもないさ。国王陛下ご自身の経験から、随分長く考えておられたことのようだ。王家に外の血を入れることをね。」
父親と義兄の話はなかなか収束を見せなかった。
二人とも熱心に話すあまり、周りが目に入っていないようで、ゾロもくいなも完全に蚊帳の外。
その様子に溜息をついたくいなが、ゾロにそっと耳打ちした。
「私、お隣へ行くわ。ノジコに会いに。あなたも行くでしょ?」
くいなに言われるまでもなく、ゾロも今日はナミの館へ行くつもりだった。
明日の早朝にはノースウッドへ旅立たねばならない。だから、別れの挨拶に。
昨夜の出来事をもう一度二人で確認して、旅立ちたい。そう思っていた。
しかし、その一方でどこか臆する気持ちがあった。
昨日の今日で、どんな顔を合わせればいいのだろうか。
そもそも昨夜のことは現実のことだっただろうか、そんな風にまで思えてくる。
緊張と期待で、どうにかなってしまいそうだった。
昨夜は、あの後ナミを館まで送っていった。ウソップやルフィには何も告げずに会場を出てきてしまったのは、悪いことをしたとは思う。でもそれどころではなかった。自分が下した決意とナミとの初めてのキスで、ゾロの頭の中は一杯だったのだ。
馬車内でナミは少し具合が悪くなったようで、静かに目を閉じてゾロにもたれかかってきた。ゾロはそんなナミの肩に手を回し、しっかりと抱き寄せた。そして、何度かオレンジ色の髪に顔を埋めた。
お互い何も話さなかったが、それで十分だった。
馬車に揺られながら、ゾロはその日の舞踏会のことと、自分のしたことについて思いを巡らした。
ナミは、庇護者から許可を貰わない限り、国外留学などできない。
その庇護者は結婚前なら父親が、結婚後は夫が担う。
父親のステーシア伯爵は国外留学などもってのほかという立場だ。
それならば、夫である者が許せばナミは国外へ行けるし、口出しする権利を失った父親にはどうすることもできまい。つまり、自分がその立場に立てば。
そう考えた。
“俺がいつかお前を連れて行ってやる”
確かにそう伝えた。それでナミにも分かったはずだった。
それなのに、車内で身を寄せてくるナミの全身から伝わってくるのは、“悲しみ”だった。
自分の失敗によって遠のいた夢。
そのことにナミはひどく打ちひしがれているようだった。
なぜ?自分が連れて行ってやると言ったのに。それなのに、どうしてそんなに悲しむ?
自分の言った言葉が心にと届いていないのか。信じられないのか。
それとも、自分の申し出への拒否の現れなのか。
でも、だとすると、あのキスの意味は?
あの時は確かに心が通じたと思ったのに。
分からない。言葉が足り無すぎて。
しかし、体調の悪そうなナミに問いただすことはできなかった。
早くナミに会って確かめたい。ナミはどういう気持ちなのか。
ナミに会いたくない。もし拒絶されたら。
相反する気持ちで隣家へ向う。
しかし、ナミの館の敷地内に入った頃には、ナミに会いたいという気持ちの方が強くなっていた。
「くいな!」
「ノジコ!」
姉同士がひとしきり再会を喜び合っているのを見た後、ナミは?と尋ねた。
いつもならゾロはそのまま図書室の窓から入ったりするのだが、今日ははくいなを伴っていたので、玄関からちゃんと入った。それで、改まった形で応接室に通されたのだ。
そして、応接室に現れたのはノジコだけで、ナミの姿が無かった。
「昨夜から熱が出てね。今朝には下がったんだけど。」
念のため部屋で寝てるのよ、という言葉半分まで聞いたところでゾロは応接室を出て行った。
くいなが不思議そうな顔をしてそんな弟を見送る。
「・・・・どうしたのかしら?」
「さぁ?」
ゾロのいつにない様子に、ただ目を丸くするばかりの姉達だった。
***
ゾロがナミの部屋をノックすると、すぐに「どうぞ」と返事が返ってきた。
声はしっかりしている。ゾロは少し安心する。
ドアを開けると、ナミは起き上がっていて、ゾロに背を向けてベッドのシーツの乱れを直している最中だった。寝間着ではなく、白のブラウスに薄いグリーンのズボンという、いつものような出で立ちだった。
瞬間、昨夜のナミの美しい純白のドレス姿が思い出された。やはり夕べは特別な夜だったのだ。あんなナミを見ることはもう当分無いのだろう。それがひどくもったいないことのように思えた。
「ナミ」
「ゾロ?!」
ゾロが声をかけると、ナミの肩がわずかに強張り、驚いたように振り返った。
ノックをした者がノジコだと思い込んでいたのだろう。まさかゾロとは思わなかったに違いない。
ナミの表情はしっかりしていたが、顔色はけっして良くなかった。
「起き上がっていいのか?」
「・・・・ゾロとくいなが来たって聞いたから、ご挨拶に行かなくちゃって思って。」
「具合悪いなら、無理して降りてくることないんだぞ。夕べ、熱を出したんだってな。」
「もう大丈夫よ。昨夜色んなことがいっぺんに起こったから、きっと知恵熱が出たんだわ。」
ナミは微笑もうとしたが、あまり成功していなかった。
“色んなことがいっぺんに起こったから”
その中にはゾロとの出来事も含まれているのだろう。
「ナミ、俺は明日ノースウッドへ帰る。その前に話しておきたいことがある。」
ゾロがそう切り出すと、ナミが大きな目をゾロにまっすぐに向けてきた。
「私も、話があるの。」
ドキッとした。ナミの話。なんだろうか。なんだか知らないが、昔から必ずナミに言いくるめられてしまう。ゾロに反論の隙を与えない。口ではナミに適わないのだ。
ナミは黙ったまま、ベッドに腰を下ろした。真中より少し左側。それでゾロに右側に座るように促しているのだと分かった。人一人分くらいの間を空けて、ナミの横に座る。お互い身体を軽く捻って、二人は向き合った。
「で、話って?」
「いや、お前からでいい。」
ナミの話を聞いてからでないと、とても落ち着いて自分の話どころではない。
「そう・・・・。」
ナミはそう呟いて、僅かに俯き溜息をついた。
しばらくナミは黙ったままだった。やがてようやくナミが口を開いた。
「あのさ・・・・、昨夜プロポーズしてくれたんだよね?」
いきなり核心を突く発言。ゾロはみるみる顔に朱が上ってくるのを感じた。チラッと隣のナミを見ると、ナミは不安そうにゾロを覗き込んでいる。
「ああ、そうだ。」
ゾロは意を決したように力強く答えた。ここまできたら、腹を据えるしかない。
それを受けてナミは言った。
「それって、夫として私に国外へ行く許可を与えることができるって考えたからでしょ?」
確かにその通りだった。ゾロは頷いた。それに対し、ナミが少し寂しそうに笑った。
「ありがとう。そこまで考えて、私のためにしてくれて。とてもうれしかった。」
とは言うものの、ナミの表情からは嬉しさは感じられなかった。
それで、ゾロにはナミが次に言う言葉の察しがついた。
「でもね、やっぱりゾロの申し出は受けられない。」
ゾロの昨夜からの抱いていた予想が的中した。そういうことを言われるのではないかと予感してたのだ。しかし、それでもやはり、そのことはゾロの自尊心を傷つけた。やっとの思いで言った言葉だったのだ。自分にとっては精一杯で言ったことだった。それなのに。
「昨夜、自分のせいでチャンスをフイにして、悲しくて悔しくて仕方がなかったの。もう自分の力では海外留学の夢を掴むことができないんだっていう無力感でいっぱいで、もうどうにでもなれって思ってすごく取り乱したの。」
「つまり?自暴自棄になってついうっかり俺のプロポーズを受け入れたってわけか?そして、冷静になって考えれば、なんてことをしてしまったのかっていうことか!」
「違うわ。それはむしろゾロの方でしょう?」
声を荒げたゾロに、逆にナミは落ち着いた口調で反論した。
「・・・・は?」
ナミの言っている意味が分からなかった。
「ゾロは、私がお父様から許可をもらえることは無いと知った。だから代わりに自分が許可を与えてやればいいって考えたのよ。そうするには私と結婚して夫という立場にならなくてはならない。だから私にプロポーズした。違う?」
「それは・・・」
ゾロが何か言う前にナミは更に言葉を足した。
「でも、私は同情なんかで結婚してもらいたいなんて思わない。ゾロ、言ってたでしょ。“結婚は一生の問題なんだから、もっと考えるべきだ”って。ゾロにはゾロが本当に好きな人と結婚してほしいのよ。間違っても、私の留学の手段のために結婚なんてするべきじゃない。好きでもないのに、結婚なんてしてほしくないの。」
「・・・・。」
「だから、ゾロの申し出は受けられない。」
ナミが顔を俯かせて、今度は消え入りそうな声で言った。
「お前、俺がお前のことを何も想わずにあんなことを言ったと思ってるのか?」
そう問うと、ナミは顔を伏せたまま、コクンと頷いた。
「そんなわけあるか!そんな理由だけであんなこと言えるわけないだろう!」
「じゃあ、なんでよ!他に理由があるなら聞かせてよ!」
ナミが顔を上げ、声を張り上げた。
「他に理由って、そりゃ、」
一瞬言葉に詰まる。
ナミは思いつめたような表情でじっとゾロを見つめ、次の言葉を待っていた。
「お前のことが好きだからに決まってるだろう・・・・」
そう言って、ようやくゾロは今まで自分には重大な観点が抜けていたことに気づく。
というよりも、やっと原点に立ち返ったようなそんな気持ち。本来はここが出発点にならねばならないのに。
ナミだけではない。ゾロにとっても、昨夜はいろいろなことが起こりすぎたのだ。
ナミが初めて熱く語った「地図を作る」というの夢
その実現への一歩となる賭け勝負
しかし、賭けには罠が仕掛けられてることが分かって
一方で、初めて見たナミの眩しいほどの美しいドレス姿に胸が高鳴った。
そんな姿を社交界に晒して、他の男達がナミを見初めたら、と心がざわめいた。
そして、ナミの窮地に真っ先に手を差し伸べたルフィに対して抱いた感情。あれは、紛れも無く嫉妬だった。
いつからこんな気持ちになっていたのか、分からない。
心の奥底に沈んでいたもの。そんな気持ちがあるなどと意識したこともない。でも確実に自分の中に存在していた。それが、昨夜いっぺんに吹き出して、表に現れてきたかのようだった。
悲しむナミの姿を見ていられなかった。
それで、ほとんど反射的に口走っていた。「俺がいつかお前を連れて行ってやる」と。
貴族女性の庇護者は結婚前なら父親が、結婚後は夫が担う。
「生まれては父に従い、嫁しては夫に従い・・・・」ということだ。
父親に代わってナミの庇護者になること、それはつまりナミを手に入れるということ。
それは断じて他の男達には明け渡すわけにはいかない役割だった。
ナミを手に入れ、更にナミの夢を叶えてやれる―――ゾロにとっては一石二鳥の妙案だったのだ。
“結婚は一生の問題なんだから、もっと考えるべきだ”
自分でそう言ったにもかかわらず、蓋を開けてみるとなんて自分は原始的で、本能的な行動をとったことか。
けれど、それが返って自分らしいという気がする。
考えて分かるもんじゃない。時間をかければ分かるもんでもない。
感じて分かるものなんだ、こういうことは。
ある日突然、何が大切で、何がかけがえの無いものなのかが分かる。
自分の取るべき道が、はっきりとした方向となって示される。
「うそ・・・・。」
ゾロの思考を断ち切るように、ナミが言った。
改めてナミを見やると、涙の膜が張った瞳でゾロを見返している。
「嘘じゃない。好きだから、だから、結婚すればいいって思ったんだ。ナミが俺と結婚すれば、俺はお前を国外だろうが、空の上だろうが、どこにでも行かせてやれる。」
「だって、今までそんな素振り一度も見せたこと無かったじゃない!」
更にナミが言う。言葉とは裏腹にほとんど泣きそうな顔になっていた。しかし、怒っているのではない。どちらかというと拗ねているような気配だった。
「昨夜まで俺も気づかなかった。でも、急に分かったんだ。」
「信じられない…。」
「キスしただろ。」
ゾロがそう言うと、ナミはハッとして思い出したように口元を両手で覆う。
「俺は、あれで気持ちが通じたと思い込んでた。俺を受け入れてくれたんだと。でも、違ったのか?」
「あれは・・・・」
「つい、うっかりか。」
「違うわ!」
「じゃあ、なんだ。」
ナミは黙り込んだ。
「頼む、ちゃんと聞かせてくれ。ここからは俺の話になるが、俺は明日から士官学校に戻る。次に会えるのは夏だろう。春は演習があって帰れないと聞いているから。だから今はっきりさせておきたいんだ。改めて言う。俺はお前が好きだ。だから、結婚したい。確かにお前を国外へ行かせてやるために言い出したことだが、それだけのためじゃない。その上で、お前は受けてくれるか?」
今度はゾロがナミの瞳を見つめ、一言一言噛みしめるように言う。平静を装っているが、心臓が早鐘のように打っていた。ゾロにとっては一世一代のこと、運命の別れ道だった。
ゾロの気迫に圧倒されて、ナミは少し身体を引いて俯いた。両手を膝の上で握り締めている。そしてそのまましばらく黙ったままだった。
その時間が永遠のように感じた時、ナミが僅かにコクリと頷いた。
あ――――?
あまりにも呆気無かったので、ゾロは一瞬拍子抜けした。
しかし、次にはまたもや動悸が激しくなってきた。
「それって、お前も俺のこと・・・・」
好きってことか?
でも、さっきのナミの言葉じゃないが、それこそナミはそんな素振りを見せたことが無かった。
「私も分かったの。」
はにかみながらナミが言う。
「昨夜、ゾロの申し出が嬉しかった。でも、すぐにゾロはどうしてあんなことを急に言い出したのかなって考えたの。そしたら、ゾロは私を好きで言ってくれたんじゃない、ゾロは優しいから・・・・私に同情してくれてるんだって・・・・そう思ったら、急にすごく悲しくなって・・・・それで気がついたの。私は、ゾロが私のことを好きで言ってくれたことを望んでるんだって。」
一呼吸ついて、ナミは顔を上げて、ゾロの方を見てポツリと言った。
「ゾロのことがすき。」
その言葉に、心が、魂が震えた。
この世にこんな感動的な言葉があろうか。
「ナミ―――」
想いが堰を切ったように溢れ出て、ナミに手を伸ばす。両肩を手を置き、引き寄せた。
目を見開いてナミを見る。聞き間違いではないのか、今の言葉は確かにナミから発せられた言葉なのかと、ナミの瞳をじっと見る。
「本当か。」
「本当よ。」
「本当に、本当なんだな?」
「本当に、本当。」
「好きか?」
「好き。」
「本当に好きか?」
「好きよ、大好き」
何度も問い、答えさせる。その度にえも言われぬ感情が心の真から泉のように湧き出してくる。
むせ返るような興奮と同時に、涙が出そうになるほどの安堵感が全身を包む。
ナミ、ナミ、
浮かされたように名前を呼びながら、ナミの両肩に置いた手は、そのまま首筋を伝ってナミの両頬を包み込み、持ち上げる。ナミと視線が絡み合う。もう憂いや悲しみは払拭されていた。代わりに穏やかさと、ほんの少しの戸惑いの色が浮かんでいた。
やがて、ナミが恥ずかしげに目蓋を閉じると、それが合図のようになって、ゾロは唇をナミのそれに重ねた。
二人の生涯2度目のキス。
喜びが全身を駆け巡る。身体中が熱くなる。頭の奥底がジンジンと痺れたようになる。
トントン
しかし、そこで無粋なノックの音。瞬間、二人は驚いて顔を離した。
「ナミ?大丈夫かい?」
ノジコの声だ。
ナミがなかなか降りてこないので、心配になってやって来たのだろう。
ゾロは内心大きく舌打ちした。いいところで邪魔が入って面白いわけがない。
ナミはゾロから身体を離して、ベッドから立ち上がり、ドアの傍へと向かう。
しかし、ゾロもすばやく立ち上がるとナミの後を追い、そしてナミの腕を掴んで自分の方にぐいっと引き戻した。勢い余ってゾロの体にぶつかりそうになったナミを、しっかりと抱きとめる。
そのままゾロがドアに向って怒鳴った。
「もう少ししたら二人で一緒に降りるから、下で待っててくれ!」
しばし逡巡の気配があったが、ノジコはドアを開けることなくその場を離れたことが、ドア越しに分かった。
ふと目を下に向けると、ゾロの胸に抱き留められたナミが、頬を赤く染め、潤んだ瞳でゾロを見上げている。
ああ、堪らない
本心を言うと今ここでナミの全てを欲しい。
明日からまた離れ離れになる。次の長期休暇の夏期休暇まで、7ヶ月もあるのだ。
離れている間のよすがとして、ナミを自分の中に刻み付けておきたかった。
そして、もちろんナミにも自分のことを。
でも、思い直した。いくらなんでも急すぎる。
何も焦ることはない。
自分達の未来は、いま始まったばかりなのだから。
「ナミ、待ってろよ。卒業したらすぐに迎えに来るから。それまでにせいぜい勉強でもしとけ。いつでも留学でも、なんでも、できるようにな!」
それに対し、ナミは晴れやかな笑顔で言い返した。
「望むところ!」
その言葉にゾロはニヤリと笑う。いつものナミらしい言葉だ。
二人で笑い声を上げ、再び唇を重ね合わせた。やさしくゆっくりと。
ついばむようなキスを繰り返す。
離してはまた触れ合わせ、お互いの唇の感触を心に刻みこむ。
次に会うときまで忘れないように、何度も何度も。
口づけは段々と深くなっていった。
――― きっと、何もかも、全てが、うまくいく ―――
ゾロはそう確信していた。
だから、
まさかこの時が、誰に憚ること無くナミと会える最後の機会であるとは、
夢にも思わなかった。
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