軍人士官学校に入学して最初の夏期休暇をゾロはノースウッドで過ごし、王都へは帰らなかった。
課外の演習が「とある国」の辺境で行われ、それに参加するため、帰れなかったのだ。
手紙でそのことをナミに知らせた時は、彼女から嘆きの返事が届いた。
誓い −4−
そして、実習地で、士官学校の学生が、今まさに教官に報告をしていた。
「ロロノア・ゾロがまだ帰還してません!」
この日、山間部の行軍の実習だったのだが、途中でゾロだけが、その消息を絶ってしまった。
リーダーの学生は、自分の班員を統率できなかったこと、現実に一人が行方不明になった事実の重さに、顔を青ざめさせていたが、教官を含め、他の多くの者は、
(あの男なら大丈夫だろう。)
と思っていた。
そう思わせるほど、ゾロの屈強さは既に皆に周知のこととなっていた。
しかし、一人サンジだけは、別の心配をしていた。
(迷子になってるんだろうな。)
と。
その通りだった。
木々が生い茂り、根元にまで光が届かないような鬱蒼とした森林の中をゾロは歩いていた。
おかしい。
確かに隊列を組んで、前の奴について歩いていたはずなのに、いつのまにか一人になっていた。
しかし、慌ててはいない。地図がある。この地図を見ながら歩けば、演習の合宿所に戻れるはずだ。
けれど、どちらが北か、方向が分からない。方位磁石をどこかに落としたらしい。
やはり多少冷静さを欠いていたのだろう。太陽の方向を読むということを、この時のゾロは失念していた。
やがて頼みの綱である太陽が傾き始め、それから30分もしないうちに沈んでしまった。
しばらくは夕陽の残滓が残っていたが、それも消えていった。
辺りはほとんど暗闇と化したが、ゾロは夜目が利く方で、危なげなく歩を進める。
昔、ナミに聞いたことがあった。山の中で道に迷ったときは、とにかく山を降りること。
耳を澄まして、川の音が聞こえないか確かめてみること。川には必ず流れがあり、上から下へと流れている。下流に沿って歩いていくと、自ずと山を降りることになる。
ゾロの超人的な聴覚によって、川音を聞き当てた。それに近づいていく。やがて、森が途切れ、川が見えてきた。それに沿って下流へと下っていった。
地面が平坦になってきて、森を抜けた。
更に歩いていると、一軒だけではあったが、人家の明かりが見えた。
ゾロはさすがにほっとした。
事情を話し、今夜は泊めてもらうことにしよう。ついでにここがどこなのか、どうすれば演習所に帰れるのかも教えてもらおう。
扉を叩くと、すぐに誰何の返事が返ってきた。
しかし、ゾロは愕然となった。
なぜならその言葉が、「とある国」語ではなかったからだ。
(もしかして、国境を越えちまったか?)
そんな疑念が沸き起こる。ありえない話ではなかった。
平坦地での国境ではある程度、境界の柵や見張りがあるのだが、山間部ではそうもいかなかった。基本的に山脈が国境線となっていて、それを超えないと、隣国には行けない。この山脈が急峻で、自然と人の往来は制限されていた。
ゾロはもともとその山間部の行軍演習のために山に分け入っていたので、歩き回っている間に、とある国とは反対側の平地に下りてきてしまったのかもしれない。
そして、とある国と隣国とでは言語が異なっていた。
ゾロが混乱して、返答ができずにいると、カンヌキが外される音がして、扉が開いた。
そこには、老人が立っていた。歳の頃は70歳くらいだろうか。
その老人はゾロの制服一瞥するなり、
「とある国の兵学校生じゃな。」
と、今度は「とある国」語で話し掛けてきた。
目をぱちくりとさせて、ゾロが老人の顔を見つめていると、
「なんだ、隣国の言葉を聞いて、驚いたのか。お前は隣国の言葉も習ってないのか」
暗にそれでも士官学校生かと、老人が言った。
「ここは…隣国なのか?」
ようやく口を開くことができた、ゾロがそう言うと、まぁ入れと言われ、勧められるがままに家の中に入った。
入るとすぐに台所があり、その前にテーブルと椅子が並んでいる。席の一つに、10歳くらいの女の子が座っていた。ゾロを見ると、ビックリしたように立ち上がり、老人のそばに駆け寄った。
女の子が不安そうに老人を見上げる。
老人がその少女に向かって隣国の言葉で話し掛ける。『大丈夫じゃよ。怪しい人じゃない。お前も知っているだろう。ノースウッドの兵学校の学生さんじゃよ。』と。
やさしげな声で告げると、少女はすこし安心したような表情になり、また席に戻った。
今度は興味深げにゾロを見つめ返してくる。
じっと見つめられ、ゾロは妙に照れた。
「この子は私の孫娘でね。先月娘夫婦が亡くなって引き取ったんじゃが、私の娘は隣国の男と結婚したからこの娘は隣国育ちで、とある国の言葉はまだ苦手なんじゃ。」
更に、老人は少女のゾロを見つめる視線に気づくと、言った。
「隣国では、暗い髪の色が多いから、お前さんみたいな明るい髪の色が珍しいんじゃ。」
老人に椅子に座るよう促され、素直に座る。
しばらくすると、マグカップに入った暖かいスープを出された。
「俺がどうして来たのか聞かないのか。」
スープに口を着ける前にそれだけ言った。すると、
「大方、行軍の演習でもあったんじゃろ。そしてお前さんはその隊列からはぐれた。違うかね?」
ご名答。
「毎年1、2人は迷い込んでくるんじゃ。」
ゾロもご多分に漏れず、というわけだった。
「ここはとある国なのか?」
スープを飲みながら訊く。
「さぁ、今はどっちだったか。私の曽祖父の時代はとある国、祖父の時は隣国、そして父の時代はとある国だった。ということは、私の代は隣国ということになるかな?」
カカカと笑いながら、老人は言うが、ゾロにはそんなに面白いものではなかった。
自分が隣国にいるのか、とある国にいるのかの疑問が解消される答えではなかったから。
ゾロのそういう面持ちに気づき、
「安心せい。今、ここはとある国じゃよ。」
と言った。
(ああよかった、国境を越えて迷っていたら、士官学校でいい笑い者だ。)
自分の最大の疑問が解かれると、次の疑問が浮かび、訊いてみる。
「そんなにここは領土の区分が変わるのか?」
その質問に老人は興味深げにゾロを見た。まるで、そんな質問を受けたのは初めてだとでもいうように。
「そうじゃ。この国境付近の村々は50年に一度、あるいは100年に一度くらいの間隔で属する国が変わる。だから、この辺の者は二つの言語を話す。どちらの国の支配者が統治してもいいように。それがこの辺境の地域に生きる者の知恵じゃ。国境付近であるがゆえに、この辺りはいつも戦場になる。その勝敗によって、ある日突然あっちいったり、こっちいったり。」
そう言いながら、老人が苦笑いを漏らす。
王都で育ったゾロには考えられないことだった。
とある国の国王に統治されることが当然の世界。
明日から、別の者に支配されることなど想像もつかなかった。
「お前さんは、王都の出身者か。」
ゾロは頷いた。
「とある国は、その昔、今の王都のある地域だけが領地だったのを知っているか。」
知っていた。知識としては。
「お前さんが今いるノースウッドも、かつては別の国だった。その国は先の大戦でとある国によって滅ぼされ、それでノースウッドはとある国の領地となった。それ以降、とある国は大国の地位を築いた。隣国はとある国の大国化に脅威を感じるようになって、国境紛争が多発するようになった。少しでも自分の領土を広げようと、互いの土地を取り合っている。この辺りは、父の時代、私が子供の頃にとある国の領土となり、私の代までは安定して統治されている。」
そこで老人は言葉を切った。ゾロもふーっと息を吐く。緊張して話を聞き入っていた。
「しかし、そんなことは、我々農民にはどうでもいいことじゃ。」
少し語気が強められたような気がして、ゾロが老人の表情を覗く。
「誰が統治しようと我々には関係ない。私達はこの土地の土と気候に支配されるのみ。土と気候と対話して、作物を育てるのみ。ただそれだけ。一つ言えるとすれば、この土を荒らす者は悪い統治者じゃ。土を、畑を、作物を荒らしていく戦争を行う者は、その最たる者じゃ。今の国王は、この地域で戦争をしてない。だからいい統治者じゃ。」
単純な図式。でも真理でもあるような気がする。
土も山も川も、太古の昔から変わらず存在しつづけている。
その表面を人が勝手に区分をつけ、陣取り合戦を演じている。
人側から見地では、支配者の入れ替わりは大変な変化だが、自然側に立てば、たわいもない、長い歴史の中の一瞬の出来事でしかない。
この老人は自然側に立って、ものを見ている。誰が支配者であっても、土着の農民としての生涯は変わらない。ただただ、土に向かい、土を慈しむ生活。
「明日、演習所に帰りたいんだが…、ここはこの地図でいうと、どの辺りになる?」
そう言って、ゾロは持参の地図をテーブルの上に広げた。
「そんなもんで説明しても、お前さんはすぐに道に迷うじゃろうて。明日、村で、演習所付近に出かける者がいないか訊いてみよう。そいつに案内してもらえばいい。」
そうは言いつつも、老人の目は、地図を読んでいた。そして、
「それにこの地図には、この村は載っていない。」
「は?」
老人は、地図の上のある地点を指差した。
「ここが、お前さんの演習所。そして、」
そのまま指を端の空白部分まで滑らせた。
「この辺がこの村じゃ。」
完全に地図からはフレームアウトしている。
「地図に載ってない?!」
これは官製の地図で、とある国では一番正確な地図とされている。だから士官学校で支給されている。それなのに、とある国の領土であるこの村が地図に載っていないとはどういうことだ。
「別に驚くことはない。」
驚愕したゾロに対して、老人は淡々とした表情で述べた。
「まだこの辺りの地図が編纂されていない、ただそれだけじゃ。この辺りは辺境じゃから、まだ測量が済んでいないんじゃろうて。人手不足じゃからな。」
カカカと老人は笑った。
そういうものなのか?という密かな疑問が涌いたが、それ以上は何も追求しなかった。
***
翌日、老人の手配のおかげで、演習所に物資を納品するという村の人が見つかり、ゾロを案内してくれることになった。
「どうもありがとうございました。お世話になりました。」
ゾロが頭を下げて、老人にそう言うと、
「いや、こちらもなかなか楽しかった。久しぶりに酒を飲む相手ができて。孫娘とはこうはいかん。」
その孫娘が、老人の横に立ち、相変わらずゾロを見ていた。
「どうやら、この子はお前さんを気に入ったらしい。」
老人がそう言うと、娘は顔を真っ赤にして、老人に文句をつけると、家の中に飛び込んでしまった。
隣国の言葉だったが、どういう意味かゾロにもすぐに分かった。
『おじいちゃんのバカ!』
と言ったのだ。老人は愉快そうな笑顔のまま、ゾロに訊いた。
「お前さんはいくつじゃね?」
「秋で16になります。」
「そうか、6つ違いか。悪くはないな。」
「は?」
「孫娘の相手に。お前さんみたいな婿なら私も悪くない。」
「へ?」
「お前さんは、好きな娘さんはいるのかね?」
そう言われて、どういうわけかナミの顔が、ゾロの脳裏に浮かんだ。
それを振り払うようにして、いないと答えた。
しかし、その一瞬の間を、老人は見逃さなかったので、こう言った。
「そうか。残念じゃよ。」
いささか声が寂しそうだった。
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