イーストレイクの魔女 −2−
気がつくと、目の前には青い世界が広がっていた。
光と波紋が交差して、揺れている。
銀色の鱗を光らせた魚がユラユラと泳いでいるのが、ぼんやりと目に映る。
なんだ?俺は水底に沈んでいるのか?
やがて、急速に視力が戻ってきた。
ガバッと身を起こしし、辺りを見回す。
水底ではない。ベッドの上だ。
部屋の中央にベッドがあり、四方を囲む壁のうち一面のみが、ガラス張りになっていて、その向こうで魚が泳いでいる。水底の青が部屋の中にも映り込んでいて、まるで水中であるように感じたのだ。
次に、ハッとなって体を手で触って確かめる。
四肢は大丈夫。怪我もない。
刀も、ベッド脇に立てかけて置いてあった。
しかし、身体を動かした拍子に節々で痛みが走った。
「目が覚めた?」
その声に振り返る。
そこには、見たことのない生き物が立っていた。
茶色い毛皮で全身を覆われていて、二本の角がある。
ただし、くるくると丸くてつぶらな瞳。
大きなぬいぐるみが動いているように見えた。
「だいじょうぶ?」
声もなく見つめるゾロをいぶかしむように、その生き物が更に心配気に声を掛けてきた。
そして、ハタと肝心なことに気づいて、
「タ、タヌキがしゃべった!」
「タヌキじゃねぇ!トナカイだー!」
「どっちにしても変だ!」
「変じゃねぇ!俺だってれっきとした魔法使いだ!俺の回復魔法は、ナミよりもずっと上手いんだぞ!」
タヌキのようでありながらトナカイだと主張する生き物が、胸をそびやかし、鼻息も荒く言い切った。
本人がそう言うならそうなのだろう・・・・そう無理矢理納得して、次に出てきた名前に反応した。
「ナミ・・・・?」
そいつはもしかしたら、
「なんだよ、お前もナミを目当てで来たんだろ?えーっと、お前たち人間の呼び方で言えば、」
そこでトナカイは、もったいつけるように一呼吸入れた。
「「イーストレイクの魔女。」」
トナカイとゾロの声が重なった。
「人間は、ナミのなんでも見通す力を求めてやってくる。ナミはこの方面の魔法に最も長けてるんだ。でも、物質的なことは苦手で・・・。」
言葉を濁し、ちらっと上目遣いでゾロを見る。
「なんだよ?」
それと自分がどう関係あるのか。
「だから、瞬間移動の魔法なんかは苦手なんだ!自分自身や魔物の移動はどうにかスムーズにできるんだけど、魔に関係ない物はてんで駄目。あ、瞬間移動の魔法っていうのは、要するに物を移動させる魔法なんだけど、ナミの場合、何が悪いって出現場所だ。その、いつも空中に―――」
トナカイは無意識のうちに部屋の天井の辺りを見上げる。
高い天井だ。そんなところに出現させられたら、さぞや―――
「つまり何か、俺はその魔法を掛けられて、」
ここまで移動したのはいいが、空中に放り出されて―――真っ逆さま。
全身に残る節々の痛みは、空中から落ちて床にぶち当たったときの打撲によるものだったのか。
「いやでも、腕の骨折くらいで済んでよかったよ。よく鍛えてるんだね。」
「腕!?」
剣士にとって、腕はかけがえのないものだ。
ゾロが手で腕をさする。が、なんともない。
「あ、だから俺が回復魔法で治したんだ。これが首の骨だったら、もうちょっと手強かったかもね。」
首の骨って。サラっと怖いことを言いやがる。
言葉の内容とは裏腹に、トナカイはまるでお天気の話でもするように気軽なで口調で話している。
しかし、ゾロにしてみればたまったものではない。思わず首の後ろに手を回して確かめてしまった。
その時、
「ちょっと、静かにしてよ。」
突然、不機嫌そうな女の声が響いた。
「あ、ナミー。」
チョッパーは顔を輝かせて声の方に振り向く。
ゾロもまた、ゆっくりと顔をそちらに向けた。
暗い部屋の壁の一部が四角く切り取られて、白く光っている。
その光の中に、ほっそりとしたシルエットが浮かび上がっていた。
そのシルエットは部屋の中へと入ってきて、その全身に青い光を浴びると、黒いローブをまとった若い女の姿が現れた。
この女のことを、トナカイは『ナミ』と呼んだ。
ということはつまり、この女が―――イーストレイクの魔女。
ゾロは、じっとその魔女をうかがった。
白い顔とフードの隙間から、オレンジ色の髪が覗いて見える。
大きな勝気な瞳が印象的な、綺麗な女だ。
噂の一つで「絶世の美女」というのがあったが、まぁ、そこまでの域ではないが。
「チョッパー、回復魔法やってくれた?」
「うん、バッチリ。」
「そう。体、まだ痛む?」
この質問は、ゾロに向けられたものだった。
茶色の瞳がゾロを真っ直ぐに捉えていた。
「それよりも、全身が妙に重いんだが。」
痛みよりも、そっちの方が気になっていたのだ。身体の芯がどんよりと重くて鈍い。
「それは瞬間移動の魔法の後遺症ね。」
その瞬間移動の魔法とやらは、そもそもいつ掛けられたのだろうか。
しばし記憶を巡らせていると、ひとつ思い当たった。
そういえば、意識を失う直前、雷に打たれたようになった。
あれがそうか。
「てめぇの仕業だってな。なんてことしやがる。」
「そのセリフ、そっくりそのままお返ししてもいいかしら。」
「ああん?」
「あんたこそ、何やってくれてるのよ。」
「何の話だ。」
ゾロは首を傾げる。
「あの立て看板、読まなかったの?願い事の受付時間は正午までって書いてあったでしょ?なんで1時過ぎてから来るのよ。」
「だからって、この仕打ちか!」
「そうじゃないわ。助けてあげたのよ。ありがたく思いなさいよ。」
「は?」
「大蛇から助けてあげたでしょう。この湖は、午後になると湖の主である大蛇が、目を覚ますの。主は自分が起きている間は、人が吊り橋を通るのを嫌う。だから、襲われたのよ。立て看板にもそう書いておいたでしょ?」
魔女は呆れたように大きく溜息をついた。
そういえば、立て看板には何か続きが書かれていたような気もするが、最後まで読んでいなかった。
「まったく、ヒトを瞬間移動させる魔法は、すごく体力を消耗するのよ。」
「別に、てめぇに助けられるまでもなかった。」
「あら、あのまま放っておいても、勝てたとでも言いたいの?」
「そうだ。」
ゾロはキッパリと言い放った。
「よく言うわ。あの蛇の主は、斬ったくらいじゃ倒せないわよ。」
「死ぬまで斬る。」
「あの主は、死んでもまた生き返るわ。」
「はあッ!?」
「永遠に斬り続けるつもりなの?その前にあんたの寿命が尽きるわね。」
「・・・・・・。」
「分かったら、素直に感謝しなさいよ。何が『オニギリ』よ、笑っちゃう。」
「なんだと!」
「だって、変な名前。」
そう言って、くすくすと声を立てて魔女が笑う。
急に顔が幼くなって、まるで少女のようになる。
ゾロは一瞬、呆気に取られた。
なんだか調子が狂う。
こいつ、本当に魔女なんだろうか。
まるで人間みたいじゃないか。
普通の娘と口ゲンカをしてるのと、まるで変わりがない。
そうか―――かつては人間の娘だったのだ。
だから、こんなにも人間臭い仕草をするのだ。
「まぁいいわ。とにかく、もう大丈夫なら、用件を済ませてしまいましょう。」
それがお互いのためよ、私、もう寝たいのよと、魔女はあくびを噛み殺している。
そんなところも、いかにも魔女らしくなかった。
「聞いてくれるのか、今ここで?」
「何よ、そのために来たんでしょう?」
「ああ。」
「こちらは報酬さえキチンと貰えるのなら、なんだっていいのよ。だからさっさと済ませましょ。」
「それならこちらとしても助かる。俺の用件は・・・・」
「話さなくても結構。もう分かっています。」
「分かってる?なんで?」
「あなたが意識を失っている間に、透視させていただきました。」
「透視?」
「ええ、私はこの分野には特に優れているので。あなたの名前はロロノア・ゾロ。恩人である大富豪ユパ家の使いとして来た。それに・・・・あなたは非常に意志の強い人ね。おかげでとても読み取り易かったわ。」
「つまり何か、俺の頭の中を覗いたってことか?」
「そうよ。」
ゾロは勝手に人の頭の中を覗くな、と言ってやりたかった。
しかし、続いてナミが紡ぎ出した言葉に、思わず口を噤んだ。
「あなたは人を捜している。その人物の名前はコーザ。ユパ家の嫡男。縁談を忌避して失踪。そしてその容貌は・・・・」
魔女はゾロのベッドに近づき、その脇に置いてあった水盤に手をかざす。
しばらくすると、水盤から仄かな青白い光が立ち上った。
そしてその光の中に、ぼんやりと男性の上半身の姿が映し出される。
それはやがて、はっきりとした形を作っていく。
水盤の水の揺れに合わせて、その姿もたゆたうように揺れるが、これは、紛れもなくコーザだった。
あまりにも見事にコーザのことを言い当てられて、その上その姿を見せ付けられて、軽く衝撃を受けた。
しかし、すぐに我に返る。
「こいつ、今、どこにいる!?」
「待って。居場所を追跡するには、何か彼にまつわるものが必要なの。彼の服とか、持ち物とか、持ってきてない?」
ゾロは首を振った。
「呆れた。あんた、本当に本気で彼を探す気あったの?それぐらい持ってきなさいよ。」
「それが無いとできないのか。」
「できなくもないけど、時間がかかるわ。」
「なら、ある。」
「え?でも、さっき無いって・・・・。」
「あえて言えば、俺だ。あいつにまつわるものといえば。俺はヤツの親友だ。」
それを聞いて、ナミはわずかに目を細めた。
次に頷いて、ゾロに手を差し伸べる。
「そう。じゃあ、こちらへ。」
ナミはゾロにベッドから降り、水盤の近くへ来るよう促した。
ゾロがそばまでいくと、ナミはゾロの手を取った。そしてもう片方の手を水盤に浸す。
ナミの手から一瞬冷気のようなものがゾロの身体に忍び込んできたような気がしたが、本当に一瞬だけだった。
その後は、ナミの白い手の存外の細さや滑らかさをただ感じるだけとなる。
本当にごく普通の手だ。人間と娘と変わりはしない。ふとした拍子に握り返したくなるような。
やがて、水盤の上の映像が波打ちながら変化を遂げる。
再びコーザを捉えたかと思うと、段々とコーザから離れ、遠景を映していく。
それにつれて、一人の女が映し出された。
その女の顔を見た時、ゾロは息を呑んだ。
「ビビ!!」
水盤の映像の中で、コーザは片膝をついて、同じように地面に座り込んでいるビビに、何かしきりに話し掛けている。
しかも、彼らがいる場所は、ユパ家の馬小屋ではないか。
ゾロは水盤に浮かび上がる二人を食い入るように見つめた。
どうして、どうして、コーザとビビが一緒にいる?しかも馬小屋に。
ビビは昨日の朝、ゾロを心配そうに見送ってくれた。早くコーザを見つけて、と。
そのビビが、どうしてコーザと。
まさか―――
二人は、駆け落ちしようとしてるのか?
では、俺を見送ったビビのあの表情は、全て嘘か?
俺を騙して、俺を遠ざけて。
そして二人で手を取り合って、逃げようと?
「そうかもしれないわね。」
不意に掛けられた言葉に、ゾロが驚いて、魔女の方を見た。狡猾そうな視線とぶつかる。
と同時に、今まで繋いでいた手を振り解く。
考えを見透かされたことが、堪らなく不快だった。
「また、読んだのか。」
「あなたの思考は強すぎて、イヤでも読めてしまうのよ。」
「二度と読むな。」
低い声でゾロは命じると、魔女はやれやれという風に肩を竦める。
水盤の上で揺らめく映像が、シャボンが弾けるかのごとくぱしゃんと音を立てて、消えた。
「でもこの二人が結ばれることは、あなたも願ってたことなんでしょう?」
そうだ、願った。
決して実ることのない恋に落ちた二人が、その恋を成就させることを。
でもそれは、こんな形だっただろうか。
こんな、周囲を騙すようなやり方だっただろうか。
けれど、二人にはこの方法しか残されていないのも、また事実。
「くそ!」
俺はどうすりゃいいんだ。
このことを、主人に知らせるか?知らせないか?
知らせれば、こんなことをしでかそうとした二人だ。二度と会えないよう引き裂かれる。
ならば知らせてはならない。
そうだ、知らせるべきではない。
だが・・・・。
「迷ってないで、確かめてきたら?」
ゾロは顔を上げた。
ゆっくりと再び魔女を見る。
「あなたは、即刻帰るべきね。」
強い瞳で見返される。
「そして自分の目で、真実を見極めなさい。」
ゾロの迷いを見透かしたようにそう言って、魔女が手を上げる。
その手のひらから、青白い光が発し始める。
「てめぇ、まさか、またアレを。」
ますます強くなっていく光に、ゾロは顔を背けながら苦し紛れに問う。
魔女は、瞬間移動の魔法だと言っていた。つまり、またどこかへ飛ばされるってわけだ。
ゾロは大蛇と戦った時に全身を貫いたあの光を、身体がバラバラになる感覚を思い出し、身震いした。
「今の時間は“主”が湖に君臨しているから、この方法でしか帰してあげられないのよ。」
悪びれもせず魔女は言う。
「畜生っ!」
悪態をつきつつも、ゾロも覚悟を決める。
「ありがたく思いなさい。特別に、ユパ家まで直接送ってあがるから。」
ナミは手のひらをゾロに向かって差し向ける。
そして、にっこりと笑った。
「請求書には、割増料金つけさせてもらうわね。」
そう告げられた次の瞬間、ゾロは眩しい光に呑み込まれる。
途切れる意識の中で、なんてガメツイ魔女なんだと思いながら。
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