このお話は「ココヤシ医院の事情」の続編です。





地面に置かれた黄色の塗料の缶に、刷毛を浸ける。
前かがみになってるところへ、初老の男性に声を掛けられた。

「秋晴れの良いお天気ですねぇ」

ココヤシ医院の夜の患者第一号だった。





ココヤシ医院の事情2  −1−





今日はベルメールに頼まれて、ココヤシ医院の玄関の引き戸にペンキを塗りに来たのだった。
引き戸は木製で、上半分にスリガラスがはめ込まれ、そこに金メッキで「ココヤシ医院」と毛筆体で書かれている。
木の部分は焼けて渋い色合いになってきていたのに、ベルメールは突如ペンキ塗りを決断した。
しかも黄色。
なんでもテレビで風水思想の番組を見て、玄関口には黄色がいいと吹き込まれたらしい。
それなら置物やなんかで済ませればいいものを、戸を黄色に塗りつぶそうという突飛な発想をするのがベルメールだと思う。
最初はどこぞの業者に頼むつもりで見積りを取ったという。
しかし、その見積り金額の高さに仰天したベルメールは、俺に白羽の矢を立てた。

「夕食付けるから、ゾロ、アンタやって!」

と、昨夜、突然電話がかかってきた。
俺は夕食だけでそんな労働できるかと断った。

今、俺は金を貯めている。自分の車を買うためだ。
俺は大学で建築を専攻していて、建物を見るのが好きだ(特に古建築)。自転車で行ける範囲にある建物はもう行き尽くした。次は車でもっと遠出して色々な建築物を見たい。
実家の車を借りにいちいち帰るのは面倒だし、親の都合でいつもいつも借りられる訳でもない。
だから自分の車が欲しかった。
実は、車の目星はもうついている。今年卒業した先輩から譲ってもらう約束になっているのだ。
後は金だけ。
更に、その先輩が次の新車を買う都合上、前の車を早く引き取ってほしいと催促してきている。
だから急ぎで金がいるのだ。親からも半分出してもらうが、残りは自分で稼ぎたい。
そのため、目下割りのいいバイトに精を出している。
寸暇を惜しんで働いているのに、夕食付きだけのただ働き同然の仕事なんかできるか。
そういう主旨をベルメールに告げた。

「そんなこと言わないで?たまにはボランティアもいいものよ。私とアンタの仲じゃないのさ!そんなお金のやり取りなんて水臭い。」
「ボランティアは自発的にやるもんだ。強制されてやるもんじゃない。だから俺がこの仕事を受ける義理はない。」
「こんなに私が頼んでいるのに!」
「来年なら受けてやるぜ。その頃にはヒマになってるだろうから。そんなに急ぐ必要もないんだろ?」
「ダメ!今がいいの!」

これが、大の大人のセリフだろうか。

「バイト料を弾んでくれるんなら、すぐにでも取り掛かってやるよ。ただし、今の俺の相場は1時間2000ベリーだ。それ以下じゃ受けねぇ。」
「高すぎる!うちの病院手伝ってくれてる女の子達なんて650ベリーよ。何ふっかけてんのよ。」
「その条件でダメなら俺は願い下げだ。他を当たれ。」

そう言うと、電話の向こうの空気がひんやりと冷たくなった。

「ロロノア・ゾロくん、大事なことを忘れてやしないかい?うちにはアンタのあの『恥ずかしい写真集』があるんだからね?」

自分でも顔色が変わるのが分かった。
『恥ずかしい写真集』とは、俺の子供の頃の情けない姿の写真を集めたアルバムだ。
両親が共働きだった俺は、ベルメールの家によく預けられ、彼女の娘――ナミとノジコ――と一緒に遊んでいた。そのアルバムの中には俺が墓場まで持っていきたい記録が残されている。寝ションベンした写真、ナミのスカート捲りをしてる写真・・・昨年もこの写真集を親にバラすと脅されて、不審な行動を取るナミの尾行を頼まれたことがある。

「てめ、汚ねぇぞ!」
「汚くてけっこう、メリケン粉。じゃ、明日、お願いね!」(ガチャン)

そういう経緯で、俺は秋晴れの下、ココヤシ医院の引き戸のペンキ塗りをするハメになった。
大学の講義があったし、ペンキの買い出しから始めなくてはならないこともあって、実際に塗り出したのは4時半を過ぎていた。
ココヤシ医院の夜の診療時間は5時からで、第一号の患者が待合室に入った後は、次々と患者がやってきた。主に子供と老人だ。
そうするうちに、10歳くらいの男の子が二人、互いに競い合いながらアーチ型の門をくぐってきた。段々と近づいてきても、ペンキ塗りをしている俺には目もくれない。

「俺が一番に読むんだ!」
「いや、僕だ〜〜!」

そのまま押し合いへし合いしながら、医院の戸を通っていく。
二人の少年が何について争っているかだいたい察しがついた。おそらく今日発売の漫画雑誌をどちらが先に読むかで争っているんだろう。俺も昔、漫画雑誌はこの医院の待合室で読んだものだ。
家で毎月購入できる雑誌は「小学○年生」や「科○と学習」とか、ちょっとお勉強も入ってるもの。最初から最後まで漫画だけの雑誌を、しかもたくさんの種類の漫画を読めるのが、この待合室の良い点だった。
俺が子供の頃は、子供の数ももっと多かったし、発売日の漫画を読むのはかなり競争率が激しかった。

ペンキ塗りは実際にやり出すと早かった。コツを掴めば小一時間で塗り上がった。
塗ってる間、そして塗り終わった後、通りかかる患者達は、昨日までと違うファンキーな色の戸に目を剥いていた。
中には非難がましく俺を見るヤツもいる。
目が語っている「こんな変な色にして」と。
いっそ面と向って俺にハッキリそう言ってくれ。
そうすれば「この色を選んだのはベルメールだ!」と反論できるのに。

後片付けをする間、人が通る度に扉に手を触れないように告げる。
しかし、いつまでもこうして忠告を与えてられない。ここは一つ「ペンキ塗り立て」の張り紙をしておくべきだろう。
出てきた子供を一人捕まえて、看護婦さんを呼んできてくれと頼む。
しかし、戻ってきた子供は、看護婦さんはいないと言う。
そんなわけあるかい。
俺がペンキ塗りの準備をしてる間に確かに4人は通ったぞ。
今度はその子供に扉の見張り役を頼んだ。誰かが扉に手を触れそうになったら警告する役目だ。
代わって俺が医院の中へ入った。
途端にぶわっと消毒薬の匂いが鼻に突く。ココヤシ医院の匂いだ。

ココヤシ医院はレトロな雰囲気漂う重厚な造りの西洋館。誰かに聞いた話だが、建物は相当古くて歴史的にも価値があるらしい。それが珍しくてやって来る患者さんもいるくらいだ。
でも、こう言ってはなんだが、かなり建物にはガタが来ている。
患者さんの中には「駐車場が無くて不便だ」と愚痴を言う人もいる。
「隙間風が入って寒い」と言う人もいる。
寂れた商店街にあるのを危ぶんで、「もっといいところへ移転すれば?」と心配する人もいる。
しかし、ココヤシ医院は古く昔からここに建っていた。きっとこれからもそうなんだろう。
ベルメールの代が終わっても、今年の春に医大へ進学したナミが、きっと引き継いでいくんだ。

玄関は引き戸で、ガラガラッと大きな音を立て、それですぐに患者さんが来たと分かる仕組み。上がり框が高くて、上がるとすぐに10畳ほどの待合室。毛足の長い絨毯が敷かれ、座布団がところどころに置かれ、思い思いのところに患者が座っている。
また、コタツが部屋の真中に現れていた。患者は高齢者が多く、「早く出してくれ」との要望が多かったのだろう。
5、6人がそのコタツふとんを被って常に順番待ちをしている。そしてたいていは自分の順番が終わってもまたコタツに入って、友達としゃべり続けている。この待合室は一種のじいさんばあさん達のサロンなのだ。
子供達は逆に待合室の壁際に並ぶ本棚に張り付いて座っている。漫画や絵本が豊富に置いてあるので、それがお目当てだ。
10畳間の一角を占領するようにして薬局兼会計窓口がある。そこに必ず一人看護婦さんがいるもんなんだが。確かに、今は不在だった。
仕方なく、待合室と診察室を仕切る扉を開いた。
診察台に患者が座っていて、その患者と話しているベルメールの姿が見えた。

「魚の骨が喉に刺さった?いつの事?」
「昨夜。夕食のイワシです。ごはんの丸呑みもしたんだけど、取れなくて。」
「今まで我慢してたのね〜。それは相当痛かったでしょう。」
「うん、めちゃくちゃ痛かったーー!」
「これで舌つまんで、できるだけ引っ張り出してね。まずは見つけなくちゃね。ナナちゃん、舌圧子(ぜつあつし→舌を押さえる道具)取って。」

その患者の処置が終わり、次の患者と入れ替わる時を狙ってベルメールに話し掛けた。

「あ、塗り終わったの?」
「ああ。」
「ありがと。後は2階でくつろいでて。診察終わったら、夕御飯だからね。」
「分かった。ところで、ペンと紙ないか?」
「何に使うの?」
「ペンキ塗り立ての張り紙に。」
「ああ、そうか。薬局にあるから、女の子に聞いて。」
「それが、いねぇんだけど?」
「え?そう?薬取りに行ってるのかしら。じゃ、ナナちゃん、教えてあげてくれる?」
「ハイ、先生。」

診察台の隣に立ち、ベルメールに器具を渡すなどの助手をしていたナナちゃんと呼ばれた女の子が、薬局へと案内し、ペンと紙を手渡してくれた。

「ありがとう。」

俺は手近にあった棚の上を利用して、すぐに字を書き出した。
しかし、何か気配を感じて目を上げる。
女の子が、ジッと俺を見ていた。

「何か?」
「あ、いえ、なんでもないんです。」

それだけ言うと、女の子はニコっと笑って診察室へと戻っていった。
なんだろうと思ったが、考えても分からないので、続きを書いた。

見張り役の子供は「遅い」と文句を言ってきたが、張り紙貼りまで手伝わせた。
さてこれで一丁あがり。さっさと2階へ行って、診察時間が終わるまでゴロ寝でもしていよう。
考えてみれば楽な仕事だった。塗る面積はたかが知れてたし、塗り始めればアッという間に片付いた。後は食事と、昼寝ならぬゴロ寝付き。確かに金は貰えないが、居心地のいい部屋と温かい食事は、今の俺にとってはなんといっても貴重なものだった。

「宅急便でーす。」

両腕を上げて思いっきり伸びをしているところに、宅急便がやってきた。
無造作に伝票にサインをして、荷を受け取った。
本か何かだろうか。四角くて、そんなに重くない。
まぁ後でベルメールに渡せばいい。その荷物を小脇に抱え、勝手口の方へ回って建物の中に入り、階段を上がっていった。
1階が診療所で2階は住まいになっている。去年までは、ここにナミも住んでいた。
何気なく荷を眺める。
宅急便の送り主の名前を見た時、思わず俺は階段を上がる足を止めた。

ナミからの荷物だった。




2へ→



<補足>
ゾロも子供も「看護婦さん」と呼んでるけど、彼女達は看護婦さんじゃありません。診療助手のバイトの女の子達デス。
また、会話なので「看護師さん」ではなく「看護婦さん」と呼んでます^^。

 

戻る