航海 −2−
「こんな時間に2人揃って何事?別に緊急事態って訳じゃなさそうだけど。」
私室にルフィとゾロを招き入れたナミは呆れたような声を出す。
「あ、カイト、もう見張りはいいわ。あなたも休んでちょうだい。」
「ですが・・・。」
「大丈夫よ。警備という点では今ここほど強固なところは無いから。」
ルフィとゾロの尋常でない強さを踏まえてナミは言った。
まだ胡乱な目をしつつも、ナミの命令とあって、カイトは引き下がった。
「なんだありゃ。てめぇの親衛隊長か?」
ゾロはカイトが去った扉の方を見つめながら言う。やがて視線をナミに戻した。
久しぶりに会うナミ。少し痩せたような気がする。夜着の上にガウンを羽織った姿のせいか、病人のようだ。
いや、ちがう。いつもの勝気な視線がないのだ。
ランプの明かりはナミの表情をいつもより穏やかに見せていた。
「彼は1ヶ月前に入って来た航海士見習よ。今は私の付き人なの。入ってきた時、あんたたちも会ったでしょう?」
「そうだっけか?多すぎていちいち覚えてねぇよ。」
ルフィの言に、はあ、と溜息を漏らしながらもナミは気を取り直して訊いた。
「で、何の用なの?」
「用?」
ルフィが逆に訊き返す。
「用があったから来たんでしょ?わざわざこんな時間に。」
「あ?ああ、そうか!そうだった!ナミは結婚するのかどうか訊きに来たんだった!」
「何の話?」
「噂で聞いたんだ。ナミが結婚するって。」
ピキッとナミの額に筋が入る音がしたような気がする。
「ルフィ?まさかそれを確認するために既に就寝している私を叩き起こしたんじゃないでしょうね?」
「おう、そうだ!(どーん)」
「ゾロ、あんたもなの?」
いきなり振られてゾロはぎょっとしたが、ちょっとバツが悪そうにして、まあなと答えた。
呆れたと言ってナミは額を右手で押さえた。
「で、どうなんだよ?」
ルフィが問い詰めると、ナミはまた溜息をついて答えた。
「そういう噂が出てることは私も知ってるわ。でもちょっと違う。正確に言うと、プロポーズされただけ。」
「プロポーズ〜??」
ルフィが叫んだ。
「そ。噂によると一目惚れだったらしいわ。つくづく罪な女ね、私も。」
「勝手に言ってろ。」
ゾロの言葉にナミはクスッと笑みを漏らし、そして2人に向き直り言った。
「そうだ、私、丁度2人に話があったの。今言ってもいいかな。ホントは次のミーティングの時に言うつもりだったんだけど・・・。」
「何だ?」
「あのね、私、次の島に着いたら船を降りたいんだけど。」
そんなことわざわざ報告するようなことじゃない。勝手に下船すればいいことだ。それを報告するということは、
「長期間降りるのか?」
今度はゾロが問う。
「うん、少なくとも1年は。」
「い、1年?」
ひっくり返ったような声でルフィが呟いた。
「理由は?」
ゾロが重ねて問うた。
ナミは少し逡巡の色を見せていたが、やがて意を決したようにして告げた。
「私ね、今妊娠してるの。」
ニンシン。にんしん。この言葉を聞いても二人はすぐには頭の中で漢字変換できなかった。
男なので、そんなことについて特に考えたこともなかったし、教えられたこともなかった。
「ニンシンて、あのニンシンか?この前、ビビが・・・・。」
珍しく動揺したようなルフィの声。
「そうよ、あのニンシンと同じよ。あんたの子供がビビのお腹の中にできたでしょ?」
ナミはニヤリと笑って人差し指で目の前に立ったルフィの額を小突いた。
丁度1年前、ビビの妊娠が発覚した。本人は当の前に気づいていたのだろうが、周りの者で最初に気づいたのはナミだった。
ルフィが父親だということはすぐに分かった。その頃には傍目にもルフィがビビの私室に夜通っていることは明白だったからだ。
ビビは船を降りて子供を産むことになった。彼女はアラバスタに帰国することを望んだが、アラバスタはグランドラインにある。妊娠中にリバースマウンテン越えをする訳にはいかない。
その時はイーストブルーを航行中だったので、ルフィの生まれ故郷のフーシャ村にビビは逗留することになった。そしてビビが出産するまで、ルフィ海賊団はフーシャ村を拠点にしてイーストブルーを隈なく航海した。
やがて、
「私、もう船には戻らないわ。」
ルフィそっくりな男の子を抱いたビビは、幸せそうな微笑みを浮かべてその無垢な瞳を見つめながら言った。
凛としたよく通る声で。
フーシャ村にあるルフィが建てた家で、ビビは今も愛しい子と共にルフィのことを思って過ごしている―――・・・・。
「ニンシン=妊娠」は理解できた二人だったが、新たな疑問が沸き起こった。
誰の子なのか、と。
ビビの場合は明らかだった。しかしナミは。
ゾロはあからさまにジロッとルフィを見た。
自分には身に覚えが無い。
となるとまさか。
(まさかまたコイツの子か・・・。)
すると、ルフィもギロッとこっちを睨んでいた。
2人は顔を見合わせる。お互い同じ考えだったようだ。つまり、少なくとも自分たちではないわけで。
「サンジか?」
「違うわ。」
じゃあ、
「「誰の子なんだ?」」
ルフィとゾロの声が妙にはもり、2人同時にナミを見た。
ナミが珍しくたじろぐ。しかし、すぐ気を取り直して魔女の笑みをして言った。
「ヒミツ♪」
***
結局ナミは誰の子なのか口を割らなかった。ナミは口が堅い。そのことをゾロは嫌というほど知っていた。また、そのおかげでナミが自分たちはもちろんのこと船員達から絶大な信頼を寄せられているということも。
ゾロに言わせれば、
あいつは意地っ張りなんだ。
となる。
他人に弱みを見せない。困難なことも一人で解決しようとする。助けを求めようとしない。
きっとルフィ海賊団の中で発生する細々とした事件や問題はほとんど全てナミのところで処理されているのだろう。余程の問題しか、キャプテンや副キャプテンのところまで上がってこないのだ。実際のところ、人間関係の絡んだ複雑で繊細な問題などをルフィやゾロが扱えるわけもなく。
今回のこともナミは既に一人で結論を出していた。
船を降りて、子供を産む、と。
ゾロもルフィもほとんど理解できなかったが、ナミが2人に告げたことは、以下の通り。
妊娠初期に船に揺られたくないので、早急に島を見つけて下船する。
今はノースブルーにいるが、安定期に入ったら、故郷へ帰るべくレッドライン行きの定期船に乗ってレッドラインに上陸し、あとは陸路でイーストブルーへ出て、そこからまた定期船でココヤシ村に戻る。そこで子供を産む。
その後のことは深く考えていない。ルフィの許可があれば自分の希望としては子供を連れてまた船に戻ってきたい。
それに対してルフィはそもそもナミが下船することに難色を示した。ナミがいなくては船を進められない、と。
ナミは昔と違って今は自分以外にたくさんの航海士が仲間の中にいるのだから大丈夫だと反論するが、ルフィは頑なに首を縦に振らなかった。
意地っ張りさにかけてはルフィはナミのはるか上を行くだけあって、降りる降りないの押し問答を続けるうちに、白々と夜は明けてしまい、そこで話し合いは次回に持ち越すことになった。
図らずも徹夜することになり、ゾロは自室に戻ってからバッタリと仰向けにベッドに倒れこんだ。
ジッと低い船室の天井を睨みつける。起床時間まであとわずか。少しでも睡眠をとろうと思うのだが、一向に眠くない。それどころか考えは一点に集中する。
ナミは誰と寝たのか。
誰がナミを抱いたのか。
あのナミを―――。
ナミは外見からは想像できないが、非常に禁欲的だった。ナミに比べればゾロは自分がとても薄汚れた人間に思えてくる。
かつてサンジはもちろんのこと、ルフィもそして自分では認めたくないがゾロもナミを求めた。
しかしそれが叶うことは無かった。
ナミは誰とも情を交わさなかった。
そのうちルフィはビビに手を出し子供まで産ませたし、サンジはというと不特定多数の女性と付き合いつつ、といった具合。もちろんゾロも人ことを言えた義理ではなく。
しかし一方でゾロはナミが誰とも通じないことに安堵していた。
この考えは自分だけではない。恐らくはルフィもサンジもウソップもチョッパーも。
ナミは誰のものにもならない。
それはすなわち永久に自分達は仲間で、同じ時を共に過ごせるということ。
ナミが誰かに抱かれるかと思うだけで心の中にどす黒いモヤがかかることを否定できない。
もしもナミが幹部の中の誰かのものになっていたら今のルフィ海賊団は無かったかもしれない。
微妙なバランスや信頼関係が崩れていたのではないか。
ナミはそれを思って誰とも情を交わさなかったのだろうか。
とにかく、ナミは自分達仲間の要だった。
そんなナミが一体誰と、いつのまに。
自分ではない。ルフィでもない。サンジでもない。
まさか、あの機関長か。風采は上がらないが人の良さそうな男で、ゾロよりずっと年上だが、非常に腰の低い奴だ。ガレオン船についての知識に非常に長けていて、その操作にナミは絶大な信頼を寄せている。そもそもアイツは年上の男に弱い。
それともプロポーズしたとかいう新入りの航海士見習、おそらくあのカイトと呼ばれていたあの男か。
ありえないと思いつつも取りとめも無く考えてしまう。
そんな時、ドアをノックの音が響いた。
「開いてるぞ。」
素っ気なくゾロが答えると、ドアが静かに開いて、チョッパーが入ってきた。
チョッパーは今やゾロの隊の副隊長という立場で、もちろん船医でもある。
「朝早くからゴメンね。夕べ、ナミのところへ行ったんだってね。何かあったのか?」
おずおずといった感じで彼は訊いてきた。なんでお前がそのことを知ってるんだと思ったが、昨夜船長と副船長があんなに派手にナミのもとへ乗り込んだのだから、話が伝わらないはずもなかった。
「ああ・・・、ナミが船を降りたいと言ってきた。」
「え?なんで?」
「あいつ、子供ができたんだと。」
さぞや驚きの声が上がるだろうと予想していた。この船医は昔から何でも驚き易いのだ。
しかし、船医からは何の感嘆の声も漏れなかった。むしろ冷静な声が響いた。
「そうか、やっと決断したんだ。それで?産むって?」
「あ?ああ。」
いささか違和感を覚えつつもゾロは相槌をうった。
なんだ、こいつ知ってたのかと思ったが、よく考えてみなくてもチョッパーは医者。ナミがまず最初に診断を仰いでいてもなんの不思議もない。
「産むんだね・・・。そうか、ナミ、えらいよな。あんなことがあってできた子は堕ろすのが普通なのに・・・。」
チョッパーは呟くように話していたが、その不穏な内容にゾロは目を見開く。
突如、目の前に新たな道が開かれたような気がした。と同時に自分の迂闊さを呪った。
「おい、チョッパー、あんなことってのは、この前の事件のことを言ってるのか?」
3ヶ月前の、ナミが海賊どもに攫われた事件。翌日には救出したが。
チョッパーはゾロのその問いにハッとなり、動揺した目をゾロに向けた。
「ナミに聞いたんじゃないのか?」
その言葉がゾロの考えを肯定していた。
ナミは確かに救出された。
しかし、何もされなかったわけではなかった。
空白の一夜があった。
なぜ、思い至らなかったのか。
助けに行ったとき、ナミがあまりに冷静だったから。
怯えた様子もなく、強気にゾロと口論もした。
だから何も無かったのだと勝手に思い込んでいた―――。
ナミは他人に弱みを見せない。困難なことも一人で解決しようとする。助けを求めようとしない。
あの時、開口一番、ナミは言った。
“あんたら遅いのよ。いつも来るのが。”
ナミの言ったことは正しかった。
ゾロ達は、遅かったのだ。
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