起床時間が来て、ナミは短い仮眠を終えて起き上がった。
食堂へ向うべく、身支度を整える。ナミはつわりが始まっていて、食欲はゼロに等しかったが、食べないわけにはいかない。
もう一人の身体ではないのだから。






航海 −3−






最後の仕上げにと姿見を覗く。少しやつれた顔をした自分がそこにはいた。寝不足のせいだけではない。
心の疲れが自分をこんな顔にしているのだとナミは気付いた。
こんな顔では皆の士気にかかわるだろう。ナミは薄く化粧をすることにした。

その時、部屋の外で突如喧騒が起こった。付き人のカイトの声ともう一つの声・・・。
先ほどまでルフィと共にこの部屋に訪れていた人物の声―――。


バタン!!という音とともにドアが開けられ、ゾロが入ってきた。
その後ろからカイトとオロオロした船医。

「ナミ、話がある。」

ゾロの低い声が響いた。その声だけでナミは彼が怒っていることを悟った。

ああ、もう気付かれたか。

「駄目です!お話なら公室の方で!」

カイトがゾロの背後から叫ぶ。ゾロはその発言を軽く無視した。

「ごめん・・・!!ナミ!おれ、ナミが全て話したんだと思ってつい・・・。」

続けてチョッパーが半泣きのような顔をして叫んだ。

「チョッパー。」

ナミが呼んだ。

「いいのよ。私が間違ってたの。ゾロと・・・ルフィには、最初からちゃんと言うべきだったんだわ。・・・カイト、お願い、二人だけにしてくれない?」



ナミのその言葉に渋々といった様子でカイトとチョッパーは部屋から出て行った。
あとに残った二人の間を重い沈黙が埋め尽くす。
二人は無言で対峙し、ゾロはナミを睨みつけている。
耐え切れず、ナミが口開いた。目はゾロから逸らして。

「で、話って?」

ナミは自分の声がかすかに震えているような気がして、そのことがとても腹立たしかった。

ゾロに対してこんな声を出しているようでは駄目だ。きっと負けてしまう。
ゾロには負けたくない。
でも一体何について負けたくないと思っているのか、ナミ自身にも分からなくなっていた。

「腹の子」

ゾロが一言呟く。

ナミはゾロを見やり、先の言葉を促す。

「確認するが・・・あの海賊の子か。」

ナミは目を伏せ、考える。

(答えろ。ゾロにはこれ以上誤魔化しは効かない。)
(駄目だ。嘘は吐き通すものだ。嘘を嘘で塗り固めろ。)
(やっぱり駄目だ。もうゾロを騙せない。)

目まぐるしく思考がよぎる。何が正しい答えなのか分からないまま返答する。

「そうよ。」

「堕ろせ。」

冷徹なゾロの声。およそ感情など含んでいないような。戦闘の作戦を伝えているかのような。
その言葉にナミは目を見開いた。世にも恐ろしいことを聞いたように身体が硬直した。

「産んでどうするんだ。目の前の不幸が増すだけだぞ。今ならまだ間に合うんだろう。」

「やめて。」

聞きたくない。そんな言葉は聞きたくない。
ナミは手で両耳を覆い、顔を伏せ、目を堅く閉じる。

「産んだお前も、生まれた子供も不幸になる。」

「・・・。」

「俺には理解できねぇ。なんであんな薄汚い海賊の子を産む気になるのか!」

「違うわ!私の子よ!」

ナミは顔をあげ、語気を強めて反論した。

「違わねぇ。犯されてできた子だ。」

「やめて!!」

瞬間、ナミはゾロの頬を平手で打っていた。
そのままナミはゾロを睨みつけて叫んだ。

「あんたに何がわかるの?!私の何がわかるっていうのよ!」

ゾロは打たれた頬をそのままにナミの両肩を掴んだ。

「てめぇこそ何考えてやがるんだ。頭のいいお前に、なぜ、それぐらいの分別がつかない?!そんな子を産んで何になるって言うんだ!!」

「離して!」

ナミが半狂乱になってもがき、ゾロの腕を振り払った。ナミは興奮のあまり震えが止まらない。怒りと恐怖で歯の根もあわなくなっていた。

ゾロが再びナミに手を伸ばそうとした時、ナミは自分自身を抱きしめて後ずさり、叫んだ。

「出て行って!出て行け!!」

ナミの瞳から涙が溢れ出し、次の瞬間にはその身体が大きく揺らいだ。

「痛っ・・・。」

ナミがお腹を庇うようにしてうずくまる。

「ナミ!!」

咄嗟にゾロはナミの身体を支えようとして近づいたが、

「ち・・・近…寄らないで・・・。」

弱弱しいが有無を言わせぬナミの声音にゾロの身体が止まった。
ナミは顔色を失い、脂汗を流している。

「おい、チョッパー!来てくれ!!」

ゾロは部屋の外に待機しているはずの船医を大声で呼んだ。




***




「ナ、ナミが妊娠!?この前の事件で!?」

まったく事情を飲み込んでなかったウソップ―――ナミの隊の副隊長を務める―――は裏返ったような声を出した。

ナミが倒れて、チョッパーから面会謝絶、絶対安静が宣告された。
今、ウソップの部屋にルフィ、ゾロ、サンジ、チョッパーとこの部屋の主のウソップが集まっていた。
ゾロは事の次第を皆に説明すると、ウソップは前述のようなことを言い、サンジは、

「そうか、それで・・・。このところ、ナミさんの様子がどうも変だとは思っていたんだ・・・。」

と呟いた。

「しかし、産む産まないはナミが決めることだろ。俺たちがとやかく言う筋合いの話じゃねえよ。」

ウソップがそう言うと、

「ナミさんは原罪意識にとらわれてんだよ。」

とサンジは返した。

「原罪意識?」

「すべからく女性というものは、生命の生き死にの責めを負うものなんだ。」

「わかんねぇ。」

ウソップは首を傾げる。

「例えば、子供が偶発事故に遭って死んだとする。べつにその子の母親のせいじゃない。それでも母親ってのは自分の子の死を自分のせいだと考えちまうんだ。どうして事故現場に行く運命にしてしまったんだとか、どうしてその場に自分がいて庇わなかったのか、とか。」

「なるほど。じゃあ、ナミはお腹の子の生き死にを左右することを恐れているのか・・・。でも、それなら産ませてやったらいいじゃないか。そうすればナミはその罪の意識から逃れられるんだろ?」

「クソ馬鹿。そう単純なものじゃねぇよ。ナミさんが本当に産みたいと思っているかはまた別問題なんだ。考えてもみろよ。好きでもない、しかもあんな目に遭わされた男の子供を誰が産みたい?てめぇだって愛してもいない女がてめぇの子を産むって言い張ってみろ。ぞっとするだろ。」

「そりゃ、お前の経験からそう言ってるだけじゃないのか?」

ウソップが思わず突っ込む。
ギロッとサンジはウソップを睨み返し、その後ゾロの方を向いた。

「とにかく、俺はゾロの意見に賛成だな。一時の感傷的な判断は悲劇を生む。」

「ちょっと、ちょっと待ってくれよ!2人とも。何て話してんだ!!」

激昂したチョッパーが怒鳴る。

「生まれてくる子供には罪は無いんだよ?なんでそんなこと言うんだよ!」

「存在自体が悪い。」

冷めた声でゾロは言い放つ。
それを聞いて、チョッパーは人型に変形し、ゾロの胸倉を掴みかかる。

「生命がかかってんだぞ!生命は何より尊いんだ!それをそんな風に言うなんて許さない!それにナミの気持ちはどうなるんだ。一生罪の意識を背負って生きていくのはナミなんだぞ!!」

「お、おい、お前ら、ちょっと落ち着けよ・・・。」

ウソップが二人を宥めに入り、チョッパーは掴んでいた手を離した。
が、二人は一触即発の状態。
ウソップは助け舟を求めるように、ルフィに目をやった。
ルフィはさして興味も無さげにウソップのベッドに腰掛けて足をブラつかせていた。

「おいルフィ、どうにかしてくれよ!お前の意見はどうなんだよ?」

「うん?何が?」

「てめぇは話聞いてなかったのか!ナミの腹の子をどうするかについてだよ!!」

「産めばいいじゃん。」

チョッパーは救いの神を見るような目を向け、ゾロは仇敵を見るような目をしてルフィを見た。

「ナミの子供だからきっとかわいいぞ〜。」

ルフィはそんな二人の視線を気にも止めず、自分の考えに耽ったようにニシシと笑う。

「何言ってやがる。てめぇの子じゃねぇんだぞ。どこの馬の骨ともわからねえ子だ。」

ゾロが声を荒げて叫んだ。

「でも、ナミの子なんだ。」

ルフィが今度は語気を強めて言う。


「父親が誰かなんてどうでもいい。例えナミが悪魔の子を産むって言ったっていい。それがナミの子なら。ナミがそうしたいなら。ナミがそうしたいって言ってんのに止めようとするお前らの方がむかつくんだ。」


その言葉に、ゾロとサンジは息を呑んでルフィを見た。




***




その日、ルフィ海賊団の船の錨が上げられることはなかった。3隊の長もその副長達も艦橋に姿を現さなかった。船内は水を打ったように静けさに包まれ、その空気は重苦しくさえあった。こんなことはかつて無いことだったので、船員達は何事かと動揺した。



私室に戻って来たゾロは再びベッドに仰向けに寝転んだ。
天井を見つめながら、ルフィが言った言葉を反芻する。


“でも、ナミの子なんだ。”


それにナミが言った言葉が重なる。


“違うわ!私の子よ!”


奇しくも2人の言ったことは一致していた。

それは詭弁だろうという気持ちはある。
あの子供はまぎれもなく三流海賊の子。
しかし、ナミの子でもあるのだ。

ナミの子。

そう考えると信じられないことに、気持ちが和らぐのを感じた。
げんきんな自分の思考に苦笑いが漏れる。


“ナミの子供だからきっとかわいいぞ〜。”


確かにそうだろう、などと柄にもないことを考える。
と同時にゾロは自分が、父親が誰なのかにこだわり過ぎていたことにも気付いた。
急に気恥ずかしくなる。まるで女房を寝取られたダンナみたいな発言をした。
なぜそんなことをしたのか。何のことはない。

「嫉妬だ。」

思わず口を突いて出た言葉にゾロは再び苦笑いした。
どうしてナミにできる子供の父親に自分はなれなかったのか。
自分はそうなりたかったのに。

また一方で、自分はあの時どうして守りきれなかったのかという思いがある。
仲間にとって神聖にして不可侵だったナミ。
誰のものでもなかったナミ。
そのナミがあんな海賊に。そう考えるだけで胸の内にドス黒いものが吹き出す。
あの海賊を八つ裂きにすべきだったと。
ナミへの手出しは万死に値する―――それはこの船の不文律。
それなのに、できなかった。何も事情を知らず、奴等を追い散らしただけ。

ナミを自分のものにすることもできない。守りきることもできない。
そんな思いが新しい生命を自分に与えられた罰だと受け取ってしまった。

しかもその憤りをナミにぶつけてしまうという。
なんということだろう。ナミには何の罪もないというのに。
ナミに謝らなければ―――



その時、またもや来訪を告げるノックの音が響いた。
昨日から今日にかけてやけに来訪者が多いぜと思いながら、ゾロはベッドから身体を起こし、自らドアを開けた。


そこには、ナミの付き人、カイトが立っていた。


「航海長が、お呼びです。」








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