ゴトッと硬い靴裏が甲板に落ちた音が響いた。
それだけでゾロが戻ってきたのだと分かった。





もう一度信じて  −4−





“その日”、ナミは食堂で地図を描いていた。
みんなが出払ったのをいいことに広いテーブルを独り占めして使っていたのだ。
外の音に気付いたものの、ナミは首を傾げた。
どうしたのだろう?てっきり今夜は久々の陸の上でお楽しみかと思っていたのに。
ナミは地図を描いていた羽ペンを机の上に置いて、食堂を出た。

甲板を見て驚いた。
ゾロがうつ伏せになって倒れていた。どうにか縄梯子を上り終えて、甲板に降立った途端に力尽きたかのようだった。

「ゾロ!」

慌ててナミがそばに駆け寄る。しかし、

「来るな・・・・。」

気を失っているのかと思っていたが、ゾロの意識はあった。
そして低く、それでいて鋭い制止の声。
ナミはあと2、3歩のところで立ち止まる。
ゾロは両手を床について起き上がろうとしていたが、ひどく荒い呼吸を吐いて、それすらもやっとという状態だった。顔は軽いうっ血状態で赤い。脂汗が滴っていた。
歯を食いしばり、顔は怒りと苛立ちで歪んでいた。

「そんなこと言ったって・・・・一体どうしたのよ。」

そう言いながら、ナミが更に寄ろうとすると、ゾロはようやく座りなおした姿勢でスッと腰から和道一文字を引き抜き、その切っ先をナミの鼻先に突きつけた。

「・・・・!!」
「来るなっつってるだろ!それ以上来たら、斬り殺すぞ!!」

ハァハァと肩で息をして、人を射殺さんばかりにナミを睨む。
息遣いに合わせるように刀の先が、ナミの目の前で上下して揺れた。
それにはナミも立ち竦んだ。素早く回れ右をして、パタパタと走り去った。
食堂の扉がパタンと閉じる音がした。

「なんで・・・・お前が、いるんだよ・・・・。」

ぐぅとうめきながら、ゾロは前のめりに突っ伏した。
てっきり誰もいないと思ってGM号まで避難してきたつもりだったのに、とんだ誤算だ。
正直言って、今は目の前にいるのが男であっても襲い掛かりそうだった。

身体の中の血が駆け巡り、全身に火がついたかのようだ。
血液は頭と下半身に集結し始めた。
訳の分からぬ苛立ちがゾロの理性を責め立て、崖っぷちへと追い詰めていく。
崖から落ちればあとはまっさかさま。人であって人でないものになってしまう。

どうすれば楽になるかは分かっている。
抜けばいい。
しかしそうすることは、あまりにも屈辱だった。
絶対にそんな無様なことはすまい、と両手の拳を握り締め、歯を食いしばる。
その時、


ザバーー!!


頭から水を掛けられた。見事に全身ずぶ濡れ。
身体が冷やされ、瞬間、理性が戻る。
顔を上げると、ナミが空になったバケツを手にして立っていた。
まるで仁王立ちのよう。目が怒っている。

「仲間に刀向けるなんてどういうつもり!ついに頭までイカレちゃったの!?」

滴り落ちる水をそのままに、ゾロはちょっと情けない顔をして、そんなナミを見つめた。



「媚薬?」
「らしい。」

甲板の上で胡座をかき、バケツの水に続いて投げつけられたタオルで身体を拭いながら事情を話し始めた。

ゾロによると、街で、性質の悪そうな男達に廃屋に連れ込まれそうになって抵抗する女を助けたのだという。
男達は女に酒を飲ませ、それに媚薬をたらす。最初に意識が混濁したところで連れ出す。次に激しい欲情を見せる。そこからはお楽しみの時間というわけだ。
女は媚薬の効きが悪かったようだ。連れ出す途中で意識がはっきりし、激しく抵抗した。そこをゾロが通りすがった。
それを聞いて、ナミは軽く溜息をついた。また無駄に女を惚れさせていると・・・・。

「で、なんであんたが媚薬なんかかまされたわけ?」
「奴ら逃げる時、薬の瓶を投げつけてきやがった。それが切り傷から入った。」

腹立ち紛れに投げつけられた瓶。それをゾロは身体に当たる前に刀の峰で叩き割った。しかし、飛沫を浴びた。
普通は薄めて使う媚薬だが、それは原液だった。
男達は「ざまぁみろ!せいぜい苦しめ!」と捨てゼリフを吐いていった。
言葉の意味が分からず、助けた女に問い掛けるような視線よ送ると、「たぶん、媚薬かと思います」との答え。
ゾロはその時初めて、それが媚薬だと知ったという。

「もう・・・・大丈夫なの?」

恐る恐るナミが聞く。
実は、先ほど刀を突きつけられたこともあって、ゾロから2メートルほど離れたところに両膝を抱えて座っていた。

「さっきまではエラかったが・・・・水が効いたみたいだな。」
「そう。じゃ、とりあえずその傷の部分は消毒しておこうか。なんか気味悪いし。チョッパーが戻ってきたら、ちゃんと診てもらいましょう。」

傷ってどこ?と聞くと、ゾロは身体を軽く捻って左肩の裏を見せた。
白いシャツの袖が切り裂かれ、薄っすらと赤い筋が走っていた。
ナミは一度自分の部屋に戻り、救急箱を携えてきた。
戻ってくると、ゾロは仰向けになっていた。
寝てしまったのだろうか。とにかくよく寝る男だから。しかし、曲がりなりにも治療をするのだから起き上がってもらわないと困る。
ナミはスタスタとゾロのぞばに近寄り、両膝をついた。
ゾロは眉間にシワを寄せて、目を閉じている。そんなゾロの、傷を負ってない右肩に触れ、軽く揺すった。

「ゾロ、ちょっと起きっ・・・・・!!」

ゾロの肩に触れていた手首を掴まれた。
驚いてゾロの顔を見ると、ゾロもこちらを見ていた。
辛うじて開けている目は、血走っていた。

「ナ・・・、逃げ・・・ろ・・・」

息も絶え絶えに搾り出すように言う。口の端から僅かに白い泡が吹き出していた。
ナミは悟った。

媚薬だ。媚薬がまだ効いているのだ。

しかし、言葉とは逆にゾロの手はますます強くナミの手首を握り締める。
ナミは手首に絡みつくゾロの指を一本一本剥がそうとした。恐ろしく時間がかかる。指一本ですら、なんて力の強いことか。
全て剥がし終えると、ゾロの腕がバタリと床に落ちた。
どうにか自由になることができ、身を翻して逃げようとした。
しかし、何かに足をとられた。

「痛ッ」

転倒した拍子に、床で胸をしたたかに打った。
なぜ転倒したのか分かった。ゾロが、今度は腹ばいになり、腕を伸ばしてナミの右足首をガッチリと掴んでいる。
そのまま、ゾロがナミの足首を手前に引っぱる。自然、ナミの身体は後ろ―――ゾロの方に向って床の上を引きずられた。
そうはさせじと、ナミは上体と肘を使って踏ん張った。しかし、容赦ない力で後ろへ引きずられていく。
背後でゾロが起き上がる気配がしたかと思うと、ナミの背中に乗り上がってきた。

「うあぁぁ・・・・!」

ゾロの熱い身体が、腰を、尻を、太股を、そして足元までを覆う。
筋肉質で重い身体はナミを甲板の上に押し付け、圧死させんばかりだった。
丁度背後からタックルされて倒れこんだような形で、そのままゾロは更に前の方へ這い上ってくる。
ナミはなんとかゾロの拘束から逃れようと、尚も匍匐前進の体勢で這おうとしたが、ゾロの太い腕がナミの胸の前に回ってきてナミの腕の動きを封じる。万事休すとなった。

「や、やめて・・・・ゾロ・・・」

頭も肩も背後から床に押し付けられ、無防備なうなじをゾロの唇が這う。
ゾロの吐く息の熱さで、ナミの首筋は燃え上がりそうだった。
うなじからゆっくりと降りてきた唇は、キャミソールのために剥き出しになった肩甲骨のあたりまで彷徨う。時折感じるざらざらとした湿った感触は、ゾロの舌だろう。
与えられる熱とは裏腹に、今までに感じたことのない感触にナミの全身は震えあがった。
しかもそれを与えているのは、仲間である男。その事実を理性が受け付けない。
感じることが許せなくて、歯を食いしばる。
ナミの身体はゾロの体重だけで押さえつけられ、自由な手は、一つはナミの下半身を、もう一つは上半身をまさぐる。上半身を動く手が求めているものが何なのかは分かっている。しかしそれは、ナミの腕と床に挟まれてガードされているため、どうしても辿り着けなかった。
けれど、不意に背中の圧力が下がったかと思うと、身体をひっくり返し、仰向けにさせられた。
両手首を掴まれ、顔の横に縫いとめられる。
今まで守られていた豊かな胸が、ついにゾロの目の前に晒された。

「いや!いや!」

ナミが顔を左右に振って拒否の意志を伝える。
束の間、ゾロの苦渋に満ちた表情が目に飛び込んでくる。

そうだ、ゾロも苦しいのだ。
これはゾロの意志ではない。
媚薬のせいで・・・・。

でも・・・・こんなのはイヤだ。
理性では分かっていても感情はついていかない。
その時、ゾロの口が微かに動いた。
唇の動きを読む。

「・・・・・!!」

ナミの抵抗が止んだ。
床に押し付けられた手首から力が抜けた。
抵抗の声を上げていた口を閉じて黙り込み、目を静かに閉じた。
ゾロが、ナミに覆い被さってきた。




***




ナミ・・・・・

ナミ!!

名前を呼ばれて目を覚ますと、チョッパーの顔がどアップにナミの瞳に映し出された。

「うわ!」

驚いて、上体を浮かす。
いつの間にか、草むらの上に横たえられていた。
周りを見回すと、畑が続いていた風景は一変していて、木漏れ日が降り注ぐ木立の中に自分がいることを知った。

「大丈夫か?ひどくうなされてたぞ。」
「うん。大丈夫って・・・・チョッパー?」
「あ、弁当、先に食ってるぞ!美味いぞ!腹減ると力出ないから。・・・・そのぅ、ナミはよく寝てたから起こさなかったんだ。」

最後は尻ずぼみな声になった。弁当を先に食べたのを、ナミが咎めると思ってるみたいに。
ナミの分の弁当を勧められたが、やはり受け付けることができず、チョッパーに食べてもらう。
パクパクと食べるチョッパーを横目に見つつ、ナミは太陽の位置から、今の時間を午後3時頃と読む。
隣町にあるという医科大学まで、あとどれくらいなのだろうか。

ふぅと、ナミは溜息をついた。
さっきの夢。最近またよく見る。
記憶を封じ込めようとした反動だろうか。日中は忘れていても、夢の中では無理矢理思い出させられる。
身体中にまだゾロの手の感触が残っているようで、時折心が疼く。



―――助けてくれ



あの時、ゾロの唇はそう動いた

ゾロが、そんなことを言うなんて・・・・




遅い昼食を終えたチョッパーは、また張り切ってナミを背負ってくれた。
見かけた住人に尋ねたところ、もうあと30分ほどで目的地に辿り着けるようだ。

「もうすぐみたいだ。よかったね」
「チョッパーに背負ってもらったおかげで早く着くわね。正しい判断だったわ。」

もしナミが意地を張って、自分で歩いてたりしたら、確実に野宿コースだったろう。
褒められて、エヘヘとチョッパーは照れたように笑った。

(よかった、今日中に診察を受けてられそう。すぐに手術してもらわないと困るもの)

病院に着いてからのことに思いを馳せる。
手術を終えたら、船に戻って、またいつものように航海して・・・。

再びチョッパーの背中に揺られていると、今度は昔・・・・ベルメールに背負われた時のことを思い出した。
やはり病院へ―――ドクターのところへ行く時だった。
熱を出して、歩けなくて。もうかなり体重も重かっただろうに、ベルメールさんはナミを背負って連れて行ってくれた。
その背中をどんなに頼もしく思ったことか。熱で苦しかったのに、うれしくてちょっと涙が出た。

為さぬ仲のナミとノジコを、我が娘として愛情一杯に育ててくれた。
血の繋がりだけが、真の親子の絆ではないと教えてくれた。

生きていれば必ずいいことが起きるから―――

生に対して限りない可能性を信じていた人だった。
その娘が、実の子を手に掛けようとしている。
一つの生命を闇に葬ろうと。
しかも、一人の男との関係を維持するためにそうするというのだから。

(なんて自分勝手な女なんだろう)
(血も涙もない)

ベルメールがこのことを知ったら、怒るだろうか。

それとも、悲しそうな顔をしながらも、ナミの選択を受け入れてくれるだろうか。




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