もう一度信じて  −5−





辿り着いた大学を見て、チョッパーは故郷のドラム城のようだと思った。違うのは、ドラム城よりももっと平べったい建物であることだろうか。
事実、大学の建物は城であった。おそらく、昔はこの集落の首長が構えた居城だったのだろう。
城は周囲よりも高い山の上にあり、東西南北のうちの三方を空堀が取り囲み、残りの一方は海に迫る断崖絶壁となっていた。戦乱の世であれば、敵が攻め込むのが難しい立地だったろう。

時刻は5時。もう既に城門は閉ざされていた。
背負っていたナミを下ろし、チョッパーが門番に訪問理由を告げると、城門のそばの小門が開かれ、中に入ることができた。そのまま建物の玄関へ行くよう言われたので、その通りに進んでいく。
踏み固められた土の道を5分ほど歩いただろうか。ようやく玄関の明かりが見えてきた。
玄関に総合の受付があり、診察の依頼をする。城門が閉まっていたこともあり、もう診察してもらえないかと思ったが、案外アッサリと大学の附属病院へ向かうよう指示された。
オレンジ色に近い白熱灯の光に照らし出された大理石張りの廊下を、チョッパーは緊張した面持ちで歩いた。隣を静かに歩くナミも心なしか顔色が青い。
とうとうここまで来てしまったのだ。もう後戻りはできない。二人ともそう思った。
病院棟に来て、また受付に用件を告げる。問診表のようなものを記入すると、待合室で待つよう言われた。
待合室では、20人くらいの人々がソファに腰掛けていた。
二人も倣って、手近なソファに座る。

「どれくらい待つことになるのかしら?」
「全員が産科の受診待ちじゃないだろうから、そんなに長くかからないと思うよ。」

それを聞いて、ナミがフーッと大きな溜息をつきながら、背もたれに身を沈めた。
待っている人々はそこかしこで声をひそめて話していた。まるで図書館の中にいるみたいに。
待合室と診療室を繋ぐ廊下の端に、大きくて黒い木製の柱時計が置いてあり、カチコチと音を刻みながら規則正しく振り子を振っていた。
窓から差し込む光が弱まり、いよいよ日が沈んでしまったことを示していた。
廊下からやってきたナースがナミの名前を呼んだ。
不安げな面持ちでナミはチョッパーを見つめると、チョッパーが力強く頷いた。そして、ナミはナースに促されて姿を消した。
しばらくして、ナミが戻ってきた。

「なんだった?」
「尿の採取。」

その後、どれくらい柱時計のカチコチを聞いたか、ついに再びナミの名前が呼ばれ、診察室へ入るよう言われる。
立ち上がると同時にナミはチョッパーの腕をガシッと掴んだので、引っぱられるようにしてチョッパーも椅子から立ち上がることになった。

「ええ?俺も行くの?」
「一緒に来てよ、薄情モン!」

えらい言われようだと思いながらもナミに従った。
診察室では若い医者が二人を待ち受けていた。
銀縁眼鏡が冷たい印象を与えたが、中から覗く瞳は澄んでいて温かみがあった。

「確かに妊娠されてます。8週目に入ったところですね。しかし、中絶を希望とのことですが・・・・。」

医者は、先ほど受付でナミが記入した問診表を一瞥し、またナミの顔を見た。
ナミははっきりと分かる動きで、コックリと頷いた。
医者が再び口を開いた時、何か説教されるのかと身構えたが、そういうことはなかった。
むしろ淡々とした口調で手術についての説明に入る。どういう手術なのか、時間はどれぐらいかかるのか、術後の経過はどうなるのか、費用はどのくらいか。とても丁寧な説明だった。
その説明によると、入院の必要もなく、その日のうちに退院できるという。それにはナミもチョッパーも唖然とした。早い退院は願っても無いことだったが、そんなに早く娑婆に出ていいものなのかと。
ただし、手術の日が問題だった。手術件数が多くて、2日待機しなくてはいけないという。
一通りに説明を終えて、医者が一枚の用紙をナミに手渡した。
手術の承諾書だった。

「一応、父親の同意のサインが必要なんです。手術の日までに貰うことはできますか?」
「大丈夫です。」

ナミはニッコリと微笑んだ。

「父親は、この人ですから。」

と言いながら、後ろに立つチョッパーを指差した。チョッパーは顎が床まで落ちそうになった。

「ち、違います!」

ジッと自分を見つめてきた医者に向かって、バババ!と両手を左右に振る。そしてナミを睨みつけ、噛み付くように叫んだ。

「ナミィーー!!」

アハハハ、とナミが朗らかな声を立てた。


2日待機を申し付けられたが、宿がないと告げると、入院することを勧められた。チョッパーも泊まるためにも相部屋ではなく個室を頼んだ。料金が上がると言われたが、ナミはそれでいいと言った。いつにない気前の良さに、チョッパーは目を白黒させた。

「ひどいよ、ナミ。一瞬、先生もナース達も信じてたじゃないか!」

まだチョッパーが先ほどのことにこだわっている。
クククと笑いをこらえながら、ナミがゴメンゴメンと謝った。そして、たどり着いた部屋の扉を開けた。

個室は6畳くらいの広さだった。扉の正面に観音開き式の窓が一つ。窓の外には丸く大きな月が浮かび上がり、月光が部屋の中に差し込んでいて、ランプを点けなくても十分明るいと感じるほどだった。
ナミが中に入って、ランプに灯りをともす。
青白かった室内がほわっとオレンジ色に変化した。
チョッパーは脇の棚に荷物を降ろした。
ナミはベッドにチョコンと座った。先ほど貰った手術の承諾書を手に持ち、目の前に掲げる。
同じくチョッパーも座ろうとして、ハタと気づく。

「ベッドって、一つだけ?」
「・・・・そうみたいね。」
「ということは・・・・」

当然、ナミと一つのベッドで寝ることになる。
途端にカーッと血液が顔によじのぼって来た。

「ねぇ?あなたが本当にこの子の父親になるのも、悪くないんじゃない?」

ナミがお腹を愛しげに撫でて、色っぽくウィンクした。
ワタワタと大きな手足を動かして、チョッパーが踊りだした。ついに頭の血管がプッツンと切れて、血が噴き出したようだ。

「オ、オオ、オレ、寝袋もらってくる!!」

声を上擦らせて、チョッパーは大慌てで出て行った。
その様子があまりに可笑しくて、ナミはまた笑った。
笑って、笑って。
ナミはベッドの脇にある机の席を引いて座り、手術の承諾書の必要箇所を記入していった。
それまで続いていたナミの笑顔は、最後の、父親の同意の欄でスッと消え失せた。

なんでこんな欄があるんだろ。
中絶する人に父親の名前を書かせるなんて、無神経なことこの上ない。
父親に立派にサインしてもらえるような人が、中絶なんて望むわけないのに。

それだけではないことは、ナミも分かっていた。
アーロンの支配下のココヤシ村で、無念の堕胎をした夫婦をたくさん知っていたから。

それに、あの医者もこう言った。

"手術の日までに貰うことはできますか?"

まるで、できないと思ってるかのように。
そう、実際に貰うことができない例が多いのだろう。意に染まぬ妊娠をしたたくさんの女性達を見てきたのだ。だからああいう物言いになる。
それでもこういう形式に則らざるをえないということを、医者も十分認識しているのだ。
いったい何人の女性が父親からサインを貰えたのだろう。
そして、いったい何人の女性が、この箇所を自分自身でサインしてきたのか――

その時、真実の父親の名前を書いたのだろうか?それとも、捏造の名前を?
形式だけのものだから、真の父親の名前かどうかを追求されることはない。
それでも、多くの女達が誰の名前を記入していったのか、ナミは無償に気になった。
自分はここに何を書いたらいいのか。

(どうせ誰がホントの父親かなんて、調べられたりしないんだし)
(この用紙も何年かしたら焼却されるんでしょうよ)
(それなら・・・・)

ナミは、羽ペンにたっぷりインクをつけて、大きな文字で最後の欄を埋めた。

"ロロノア・ゾロ"

はっきりとそう書いてやった。
このくらいは許されるだろう。
この書面の上でだけでいい。
お腹の子供の父親は彼なのだと示してくれれば。
自分とゾロとの間に子供ができたという真実を伝えるものを、一つくらいは形にして残したかった。

(まさか、この書面が流出するなんてことないわよね・・・・?)
(10年後とか、ゾロがもう大剣豪になった頃、この書面が発見されたりして)
(『スクープ!あの大剣豪が子供を堕ろさせていた!』――なーんて見出しがついたりしてね)

浮かびそうになった笑顔を、またすぐにナミは引っ込めた。
その時は、自分はどこにいるのだろう。
ゾロのそばにいるのだろうか。
それとも――
未来には何一つ確かなものなどない。
ゾロのそばにいたいと思ってとったこの選択も、結局は水泡に帰すのかもしれない。
でも今はこの道しかない。
ごめんね、赤ちゃん。
こんなおかあさんのお腹に入るなんて、あなたも不運だったわね。

カタッと背後で音がして振り向くと、チョッパーが立っていた。
いつの間に戻ってきていたのか、全然気がつかなかった。
バサッと用紙を裏返し、そのまま枕の下に入れた。
チョッパーは手に寝袋を持っていて、少し気が抜けたような表情をして突っ立っている。
その寝袋の大きさを見て、人型のチョッパーが入れるのか心配になった。
せいぜいナミが入れればいい程度の――ごく標準の大きさの――寝袋だったから。

「それで大丈夫なの?体、入るの?」

言った後、すぐに(そうだ、人獣型になれば何の問題もない)と思い直した。

「え? あー、うん、だいじょうぶ・・・・たぶん、きっと・・・・。」

どこか夢見心地のままの生返事が返ってきた。
訝しく眺めていると、ハッと我に返ったチョッパーがナミを見た。

「オレ、さっきの先生ともう少し話がしたい。」
「え?」

今度はナミが聞き返す番だった。

「この国の医療についてさ、もっと知りたいし。ちょっと行ってくる!じゃね、ナミ。おやすみ!ゆっくり休んでよ。」

チョッパーはすこぶる晴れやかな顔をして、ナミの返事も待たずに寝袋を放り出すと、またドタバタと騒がしい音を立てて部屋を飛び出した。
訳の分からないまま、ナミはそんなチョッパーを見送るしかなかった。

そしてその夜、チョッパーは部屋に戻ってこなかった。




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