夕刻になってイースト宮に戻ると、一番にナミはどこかと尋ねた。
「図書室においでです。お呼びいたしましょうか。」
「いやいい。俺が行く。」
王を継ぐ者 −5−
毛足の長い絨毯が敷き詰められた図書室の中央で、周りを高く重ねられた本に囲まれて、ナミは扉側に背を向けて座り込んでいた。花のようにふわりと広がるドレスの裾がナミを中心に取り巻いている。
ナミがイースト宮殿に来て最も喜んだのが、この図書室の存在だった。以来、時間を見つけてはここに入り浸っている。
今もまた、分厚い本を手に持って、熱心に読み耽っている。
何かにつけて知識に解を求めがちなナミは、こんな夫婦の問題に関してまで本に何かを求めているのだろうか。
絨毯が扉の開閉や足音さえも吸収してしまい、ナミはいまだにルフィが入ってきたことに気づいていない。視線を本に落としたままだ。
扉の方を向いてナミと同じように座っている侍女の方が先にルフィの入室に気づき、さっと頭を下げた。この侍女はナミと年が近く、ナミのお気に入りでもある。最近、ナミはいつも彼女をそばに置いている。
その侍女が王太子来訪をナミに知らせるべく声を掛けようとするのを、ルフィは口に人差し指を当てて止めると、ナミの背後にぴたりとしゃがみこみ、ナミの肩に顎だけをどすんと乗せた。
「きゃっ!」
突然かかった重みに驚いたナミの手から本がドサリと膝の上に落ちる。
ナミは顔を心持ちルフィの方に向け、ああびっくりしたと呟いた。
「おかえりなさい。」
表情はよくわからないが、声は心なしか弾んでいる。
自分が戻ってきたことを喜んでくれているのだと分かる。
ただいまとルフィも応えた。
「今日はどうだった?」
「ウソップと会ってきだぞ。」
「ふぅん、元気だった?」
「ああ、相変わらずだった。」
「そう。」
「それから、マキノとも。」
「マキノさんとも?」
「ああ、ナミに会いたいって言ってた。今度一緒に会いに行こうぜ。」
「そうね、楽しみだわ。」
ナミが目を細めて笑っているのを感じる。
ふと視線を落とすと、ナミの膝の上に開かれた本が目に入る。
開かれたページを覗いてみると、何やら人体の絵。
やっぱりな。こういうヤツだ。
ルフィはナミの肩越しに腕を伸ばし、その本をナミの膝の上からやや乱暴に払い退けた。
「あ、こら。」
ナミは慌てたように退けられた本に伸ばしたが、その手を掴む。
そして、ナミの耳元に語りかけた。
「もう、いいじゃん。」
「え?」
「ウソップとも言ってたんだけどさぁ・・・・」
ここまで言ったものの、うまく自分の考えを説明できない。
「とにかく、俺、もう焦らないって決めた!」
「何を言うかと思えば。いいえ、そういうわけには―――」
反論しようとするナミの頬に手を添えてこちらを向かせると、その開きかけの口にルフィのそれをそっと重ねた。
キスは、二人が唯一まともにできるようになった夫婦らしい行為だった。
というよりも、ナミの口を封じたい時にいつもやると言った方がいいのかもしれない。
「だめよ、ルフィ。」
キスは一瞬で、すぐにナミは頭を振ってルフィから顔を離す。
ナミは顔を赤くしてその頬に手を添えて、その視線をすぐ前に控えている侍女に注いでいる。
侍女の方はというと、目の前で繰り広げられる王太子夫妻の睦事にも別段動じた風もなく、ツンと取り澄ました様子で端座している。まるで自分は置物みたいなものですからお気になさいますなと言いたげに。
ルフィはこうした女官や侍従達の存在に生まれた時から接しているため、すっかり慣れてしまっていて、彼らがいようがいまいが気にならなくなっているが、ナミはそうではない。
ナミは王室に嫁いで初めてこういう常に誰かに付き従われる生活に接することになった。
それこそ寝室以外では朝から晩まで衆人環視の中なのだ。
だから、ルフィがまるで二人きりでいる時のような振る舞いを、侍従や女官達の目の前ですることには大変抵抗がある。
けれど、そんな風に侍女の存在を気にするナミに、ルフィは逆に妙にをそそられる。
恥らう姿が物珍しくもあり、可愛いくもある。
調子に乗ってナミの顎を捉え、今度はやや強引に自分の方に向けて唇を奪う―――と、顔を叩かれた。
「イテーな!!」
ナミの身体を解放し、唇を尖らせながら両手で右頬をさする。
「何するのよ、まったく!!」
と、ナミはぷりぷり怒っている。
それは最近なりを潜めていた気の強いナミだった。
めそめそしているナミを見るよりもずっといい。
「いいじゃねーか、ちょっとぐらい。」
「よくないわよ、人前ではやめてって言ってるの!」
じゃぁ、人のいないところならいいんだな。
そんなことを考えて、ルフィは人の悪い笑みを浮かべる。
そうだ、今夜はウソップに教えてもらったことをいろいろ試してみよう。
***
その夜、寝所に入ったのはルフィの方が先だった。
ベッドのうえに寝そべって、顔だけをそばにある鏡台に向ける。
この頃のナミはこの鏡台の前で髪を梳かすなどして身支度を整える。
それを眺めて待つのも密かな楽しみだった。
ナミは髪を、夜だけは下ろす。ナミがかつて御前舞踏会でのデビューのために伸ばし始めた髪は、もう肩甲骨まで届く長さになっていた。その髪を片方の肩に流してブラシでせっせと梳く。もうそれで十分じゃないかと言いたくなるほどの回数をブラッシングする。
そうやって念入りに梳かれた髪は確かに絹のような極上の手触りで、その髪に指を差し入れる瞬間も楽しみのひとつだった。
ごろりと寝返りを打ち、天上を見上げたところで音も無く扉が開かれた。気配でそれを感じ取ったルフィは上体だけ浮き上がらせて両肘で支え、扉の方を見た。
そこには、一人の女官と思しき女が薄紫色の夜着を身にまとい頭を垂れて立っていた。そして頭を下げたまま中腰の姿勢でしずしずと寝所の中へと入り、ベッドの方へと進み出てくる。
一体なんだろうと、訝しく思いながらルフィはその様子を眺めていた。
侍従達の余興か何かだろうか。しかし、ルフィがイースト宮に住まうようになってこのかた、一度もそうしたことが行われたことはない。
なので、ますます何だろうと思う。
女はなおも頭を下げたまま、ベッドの前でひざまづく。長いブロンドの髪が肩からさらりと滑り落ちる。
ルフィは今度は身体をきちんと起こし、ベッドの端に足を下ろして座り直し、女を見つめた。
いつまで待っても、女は何も言わないまま。
業を煮やしたルフィから先に声を掛けた。
「なんだお前?」
そうすると、初めて女は顔を上げた。寝所をほのかに染める灯りがさっと女の顔をも照らし出す。
その顔を見て、ルフィはぎょっとする。思わずベッドの上を後ずさりしそうになった。
なぜならばその女は、ルフィが性の手ほどきを受けた、あの女官だったからだ。
姿かたちはすっかり忘れてしまっていたが、さすがに顔を見れば分かった。
女官の方も、ルフィが思い出してくれたことに気づいたらしい。緊張した面持ちが解けて、幾分親しみやすい顔つきになる。
逆にルフィはうろたえた。どんな顔をして接すればいいのか、皆目見当もつかなかった。
この女官と寝たのは一度だけ。
気持ち良かったけども気持ち悪くて、その後は頑なに拒んだ。
でももちろんそう簡単に忘れられるものではない。忘れようとしても忘れられない。
そんな一度きりの身体の関係を持った女と対峙するという生々しさに、心構えができていないルフィはただただ身を固くするしかなかった。
それに、彼女がそれだと分かっても、まだまだ疑問は尽きない。どうして彼女がここにいるのだろう。一体何のためにここにいるのだろう。
面を上げてもしばらく沈黙を保っていた女官が、不意に口を開いた。
「今宵は、わたくしがお相手つかまつります。」
その言葉は音としてルフィの鼓膜を震わせたが、その意味を理解するにはしばらく時間を要した。
意味が解した時、何かの冗談だろうかと思う。もし冗談だとしたら、全然面白くない。
ルフィが二の句も継げず目を見開いて固まっていると、女は素早く立ち上がり、ルフィのそばににじり寄ってくる。
一歩近づくごとに、匂いたつような色香が滲み出し、迫ってくる。
逃げたくても射すくめられたように逃げられない。
やがてルフィの目の前に立ちはだかって、自ら夜着の腰紐を解く。
その肩から薄衣が滑るように落とされると、見事な裸体が現れた。
「うわぁ!」
情けない声を出し、咄嗟にベッドから立ち上がったルフィは女の足元に落ちた夜着の襟を掴んで引き上げ、女の胸の前で掻き合わせた。それこそカーテンを思い切り閉めるかのように。そうすることでなんとか白い肢体が視界から隠された。
ほっと息をついたのもつかの間、
「王子」
久しく呼ばれていない呼び名で呼ばれ、顔を上げると、女と目が合う。
女は妖艶に微笑んでいる。
その瞳に吸い込まれそうになる。
「お変わりがなくて、嬉しゅうございます。」
そう言われて、脳裏にあの時のことが蘇る。
ただ一度きりの強い官能。
頭の奥が痺れたようになり、身体が思うように動かない。
女は口を艶かしく開いて尚も何か言ったようだが、何かは聞き取れなかった。
目の前でその両の細腕が持ち上がり、ルフィの首に回されてくるのをただ見ていた。
そうして、ゆっくりと白い面が近寄ってくる。
そのまま目を閉じてしまいそうになる。
寸でのところで反射的に顔を反らすと、女はルフィの首筋に顔を埋め、薄い肌にその歯を立ててくる。
ちくりとした疼痛が身体の支配権を呼び戻す。
「やめろ!!」
鋭い声に、女はルフィの首に回していた手を緩慢な動作で胸元にまで引き戻した。
ルフィの手から夜着の襟元を引き取ると、襟をその手でぎゅっと握り締め、また元のようにその場でひざまづき、頭を下げた。
「何のマネだ。」
「・・・・・先ほども申し上げましたように、今宵はわたくしが伽を務めることになりました。」
「なんで?」
「それは・・・・」
妃殿下ではお相手ができませんからと、女官は若干を口をはばかるようにして言った。
ルフィは思考を巡らす。
では、ナミの代わりに、この女が遣わされたということか。
いまだに自分がナミを抱けないのなら、一度抱いた女なら抱けるだろうと、侍従達は考えたのだろうか。
しかし、それは見当違いもいいところだ。別に女に飢えてるわけではない。ましてや女なら誰でもいいわけではない。
ナミだからだ。
そして、ナミだからこそ抱きたいけれど抱けない。
ナミが嫌がるうちはそれが何であれやりたくない。
そういえば、
「ナミは?」
「・・・・。」
「お前、もう下がっていいぞ。代わりにナミを呼んできてくれ。」
女官は頭を下げたまま答えない。
痺れを切らして、ルフィは女官の前を通り過ぎ、扉へ向かう。
殿下と、後ろから追いすがるような声が聞こえたが、無視した。
バンと扉を開いて次の間へ出ると、驚いたことに3人の侍従と2人の侍女が立っていた。
夜間において、寝所の隣にある次の間に最低一人の侍従か女官が控えているものだが、この数は多すぎる。
「なんだ?どうした?」
さすがに変だと思って聞いてみるが、侍従達は一様に目を伏せて押し黙ったまま。
仕方ないので、次にナミはどこにいるのかと聞いてみるが、それにも彼らは答えない。
ルフィの顔色が変わる。
これは、ナミに何事かあったのだ。
「おい、ナミはどこだ?」
そう問うてみても、彼らはただ重々しい空気を纏い木偶の棒のように突っ立っているだけ。
「ナミを連れこい!今すぐ!」
「ひ、妃殿下は、今宵はこちらにお越しにはなられません!」
大声で怒鳴りつけると、ようやく年嵩のいった侍従が震える声で早口に答えた。
「どういう意味だ?」
ルフィはその侍従の胸倉を掴み、思い切り顔を近づけた。
おののきながらもその侍従は気丈な態度で王太子の視線を撥ね退ける。
残り二人の侍従はルフィの周りを取り巻いて、殿下どうかお静まりをと口々に訴えている。
「言え!ナミはどこだ!!」
掴んだ胸倉をそのまま軽々と持ち上げると、侍従の足が宙に浮く。
さすがに息を呑む音がして、ぎりぎりと胸倉を締め付けられた侍従が声を振り絞る。
「妃殿下は・・・・医務・・・室にて・・・・」
「医務室?」
「はい、今宵は加療中のため、お越しになれないのです!」
ルフィの反問に今度は傍らでおろおろとしている別の侍従が答えた。
それを聞いて、ルフィは胸倉を掴む手をぱっと離す。咳き込む音が聞こえた。
ナミが病気?
夕方、図書室で会った時はピンピンしてたのに?
考えるよりも先に足が動き出した。
医務室へ向かおうとすると、侍従が立ちはだかる。
安静が必要なので今宵はお会いになれませんと言ってくるのを押しのけると、今度は両肩を押され、腕を掴まれた。
あくまでルフィを止めようとする、必死な侍従達に面食らう。
いつもルフィには従順な彼らがここまで抵抗するとは。
一体どうなってしまったのか、訳が分からない。
それに、何か嫌な予感がする。
かの女官との再会、いつもより多く待機していた侍従達。
いずれもたたならぬ雰囲気を醸しだしていた。
その時、部屋の中にいる一人の侍女と目が合った。
ナミのお気に入りの、あの侍女だ。
瞳を潤ませて、両手を胸元でひしと握り合わせ、震えている。
その目が何かを訴えかけていた。
「お前、ナミのこと何か知ってるんだろ!言え!」
「あ・・・・。」
侍女は青ざめている。どうしたらよいのかという風に、目が年配の侍従達とルフィの間を行き来する。
侍従達は鋭くその侍女を睨みつけ、しきりに首を振って制しようとしているのが、ルフィの目の端に入る。
ルフィは侍従達の手を振りほどき、若い侍女に向かって一歩近寄ると、二の腕を強く掴み前後に揺さぶる。
「言え!!」
その途端、堰を切ったように侍女の瞳から涙の粒が溢れる。
「殿下・・・! 妃殿下を、お救いください、お救いください!!」
そう叫ぶと、侍女はその場に泣き崩れた。
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