「ナミ先生、患者さんお呼びしてもいいですか?」
「いいわ、ビビ。今日は多そう?」
「雨が降っていますから、そんなには」
午後5時。夜の部の診療開始時間だ。
薬局の片隅に据えられた院長机に向っていたナミは、読みかけの雑誌を本棚にしまうと、もう一度机に向き直り、パンパンと2回拍手(かしわで)を打って、深々と頭を垂れた。
その様子を見ると、いつもビビは気持ちが引き締まる。
ナミは、診察の開始前に必ずこうして祈りを捧げるのだ。
机の上には、二つの写真立てがある。
一つはナミの母の写真。
そしてもう一つは、ビビの知らない―――緑頭の青年の写真。
ココヤシ医院の事情4 −1−
四条
「ヨサクくーん、ジョニーくーん、お鼻洗ってくださーいv」
ビビが待合室の戸口に立ってカルテを見ながら名前を呼ぶ。
その声に呼応するようにドタドタと足音をたてながら男の子達が診察室の中に入ってきて、備え付けの洗面に向かい、馴れた手つきで「鼻洗」を行う。
はにかむ年頃の彼らはロクにあいさつもしないが、誰も特に気にも留めない、いつもの光景。
「ムラナガさん、どうぞ〜。それからマキノさん、ドウケさんは中でお掛けになってお待ちくださいね。」
ここはココヤシ耳鼻咽喉科医院。商店街のはずれに建つ医院。
昔の商店街はそれはそれは賑やかで、人の往来も激しくて、この医院も多いに繁盛していたのだが、その商店街もシャッター通りと呼ばれるまで寂れてしまっている。そのため、医院の活気も往時のものとはほど遠くなっている。
それでも、この地域の人々の医療を支えて100年以上が経つ。この医院の現在の院長はナミ。先代の院長であったナミの母・ベルメールからこの医院を受け継いで2年になる。美人で頭が良くて、何よりも性格が良いと、先代と変わらず評判は上々だ。
医院の建物は相当古いものの、歴史的には価値があると言われている。この建物見たさにやってくる人もいるぐらいだ。
車社会になる前の昔の造りなのもあって駐車場がなく、車で来たい患者さんにはだいぶ不便を強いてしまっている。古い建物はだいぶガタが来ていて、隙間風が入るほどだ。老婆心で建て替えや移転を勧めてくれる人もいるが、ナミは特に気に留めず、昔から受け継いできたものを、そのまま継いでいくつもりでいる。車で来たい人はきちんと駐車場のある医院に行けばいいし、隙間風が寒いという人は暖かい病院へ行けばいいと思っている。
医院のスタッフは現在2人。一人はナミの姉のノジコで、薬局兼会計を担当している。
ノジコは航空大学校を卒業後、パイロットとして地元のコミューター航空会社に就職したのだが、先ごろ結婚&妊娠のため、退職した。今は医院から歩いて15分のマンションで夫と暮らしている。現在妊娠8ヶ月の大きなお腹を抱えながら、ナミの医院の手伝いに通っているのだ。
そして、薬局と待合室の隣の部屋にある診察室。ここにいるのはナミと診療助手のビビ。
ビビはイースト大学の1回生で、入学直後から診療助手のアルバイトとして来ている。
若くて可愛いくて気立てもいいビビは、あっという間に患者さん達の人気者になった。
「ナミ先生、コロコ○の最新号入ってないよ。」
鼻洗を終えた少年が待合室に戻る途中、ナミに向かってぶっきらぼうに言った。
「え?あれって毎月20日発売じゃなかったっけ?」
「違うよ。コロコ○は15日なんだってば。だから今日だよ、今日。」
コロコ○というのは「コロコ○コミック」のことで、小学生男子の絶大な人気を誇っている漫画雑誌である。待合室に置かれていて、最新号が出た時なんかは子供達の間で取り合いになる。
「そうなんだ。明日には買っておくから。」
「だめだなぁ。しっかりしてよ先生。」
「ゴメンゴメン。」
少年は尚もブツブツ言いながら、待合室へと戻って行く。
そんな風に注意されて、ナミは肩をすくめて笑って少年を見送った。
そして、カルテに軽く目を走らせて、診察台に座っている患者さんに向き直った。
「えっと、ムラナガさん。右耳の調子はどうですか。」
「ハイ、だいぶいいです。」
「では診てみましょうね。」
ナミ先生は額帯鏡を頭にかぶって立ち上がると、ライトを点け、耳鏡を手にとった。
ビビが綿棒を一本持って、ナミに差し出す。
さながら、手術室の「メス!」のようなもの。
耳鼻咽喉科なので、耳、鼻、喉を患った患者さんが来る。
「鼻血が慢性的に出ると。」
「うん。鼻クソ掘るでしょう。そしたらスグに。」
「あんまり掘り過ぎないようにね。」
「そんなこと言ったって先生。掘りたくなるでしょ、鼻クソは。それが鼻クソってもんでしょ。」
「なんでも『過ぎる』のはよくないのよ。」
「はー、そか。なるほどね。」
「とりあえず止血するから。その後は当分掘らないように。」
「はーい。」
「ビビ、焼くわ。(焼く→硝酸銀を鼻の粘膜に塗る止血方法)」
「ハイ」
「ああ〜、アレルギー性鼻炎ですね〜。」
「は?」
「俗に言う花粉症のことです。」
「え、なんの花粉症なんでしょう。もう夏なのに。」
「それは検査で調べてみないとわかりません。原因は花粉とも限らないので。ハウスダストが原因だと、年中発症します。それに春以外にも花粉症はあるんですよ。ともかく、何がアレルゲンになっているのか調べてみますか?」
「はい、お願いします。」
「じゃ、菌検を。あと、点鼻薬を出しておきますね。」
「ナミ先生ー!雨漏りが始まったよーー!」
突然、患者さんが待合室から顔を覗かせて叫んだ。
「わっ!スミマセン!いつものようにお願いしますー!」
待合室が一時騒然となった。しかし、これも雨の日のいつもの光景だったりする。
なんせ古い建物なので、最近では雨漏りも起こるようになっているのだ。
患者さん自らが勝手知ったる医院内を歩き回ってバケツを確保。雨漏りポインツにそれらを配置してく。
その後、ポタッ、ポタッというどこか規則性のある雨音が院内で響き渡る。
やがてパタッと客足、いや、患者足が途絶えた。
今、待合室にいるのは、お年寄りを中心とした、待合室をサロンとしても利用している患者さん達だけだ。
「患者さん、途切れましたね…。」
「雨だしねー。」
ナミは額帯鏡を頭から外し、棚から医学雑誌を引っ張り出し、読み始めました。
雨が降ると、耳鼻科医院は閑古鳥が鳴く。
耳鼻科の病気は生死に関わることがないので、よほどの重症でないと、雨の日に出かけてまで医者に行こうとは思わないのだろう。
あとは終了間際にやってくる患者さん達で今夜は終わりかもしれない。
診療終了時間は午後8時。
しかしこの日、『客』は午後8時以降にやって来た。
***
午後8時半。診療後の後片付けもほとんど終わった頃、そんな時にガラガラッと立て付けの悪い引き戸が引かれる音が響き渡った。
ビビは「しまった」と思った。8時を過ぎたのに、戸の鍵を掛けるのを忘れてしまったと。
「あの、申し訳ありません、もう診療時間は終わったんですが・・・・。」
玄関の土間に、金髪の男が雨に濡れてスーツをハンカチで拭いつつ立っていた。前髪が長く顔に垂れかかり、左目を完全に覆い隠している。
ビビはここに来てもう半年になるが、初めて見る人物だった。
遠慮がちに再度話し掛ける。
「・・・・急患さんですか?」
「アア、夜分遅くに申し訳ございません。私はこういう者でして。」
差し出された名刺には、「株式会社 アーバンイースト」と書かれている。
製薬会社などの医療関係の企業名とは思えない。
ココヤシ医院に何の用事があって来られたのだろうかと、ビビは首を傾げた。
「あの、どういったご用件でしょうか。」
「院長先生はおられますか。」
ずいっとビビに顔を近づけて、金髪男が迫ってくる。
ビビはその異様な接近ぶりに身体を引いて、仕方なく言われるがままに名刺をナミに届けに行った。
ナミは一瞬怪訝な顔をして受け取ったが、名刺を一目見てパッと表情が変わった。そして、すぐに会うと言ったのだった。
「久しぶりですね。サンジさん。」
「ああ、ナミさぁーーん!それにお姉様も!」
待合室の座卓に座っての面会と相成った。
ビビは、ナミとノジコが、この金髪男と知り合いなのだと分かり、そぉっと近づいて、お茶を出した。
不思議そうに見つめるビビの視線に気づいてか、ナミがサンジを紹介する。
サンジは元某大手ゼネコンの社員で、今は退職して商業コンサルタント会社に勤務している。
現在は新しく建設されるビルや商業地におけるテナントリーシングの仕事を主に手掛けている。
「商業コンサルタント会社の方が、どうしてナミ先生とお知り合いなの?」
なおもビビは不思議そうに問いかける。
「俺、ゾロと同僚だったんですよ。」
―――ゾロ?
ビビにとっては初めて聞く名前だった。
「サンジさん、この子はゾロのことは知らないの。」
「あ、そうなんですか。ゴメンゴメン。」
サンジは、ビビが当然知っているとばかり思って話してしまったと謝った。
(ゾロ、ゾロ・・・・)
ビビは頭の中でその名前を反芻した。
そして、突然、ナミの机の上に置かれていた2つの写真立てのことを思い出した。
一つはナミの母・ベルメールの写真。
もう一つは―――緑頭の青年の写真。
あの青年が、ナミにとってどういう存在なのか、実はずっと気になっていた。
ただ、診察前にナミが写真立てに対して拝む姿から、恐らく母親と同じく―――亡くなった人なのだと思っていて、気軽には聞けないと思っていたのだ。
「ナミ先生、ゾロ・・・さんて、どなたなんですか?あの・・・・写真の方ですよね?」
ついつい口を突いて出てしまった質問だった。
それに対し、途端にナミは表情を曇らせる。
その反応に、ビビはハッとして口元を押さえた。
まずい質問だったかと。やっぱり触れてはならない話題だったのか。
「ゾロはね、ナミの婚約者だったんだよ。」
ナミではなく、ノジコがさらりと答えた。
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