オレンジ娘の純恋歌 ―後編―
真牙 様
「こんにちはー。伯母さん、ゾロいるー?」
聞いたことのない若い女の声に、ナミの耳がびくりと震えた。
居間のところから廊下を覗き、診療所の入り口を兼ねている玄関をそっと伺う。
そこには黒い髪に黒い瞳の、活発そうな娘がひとり立っていた。歳の頃はゾロとほぼ同じくらいだ。
(・・・誰? 見たことない娘だわ)
「ああ、くいなかい。今日は早く退けたから、帰ってるはずだったけど。ゾロー、いるんなら降りといでー」
「おぅ、今行くー」
2階から声が返り、ゾロは何だか足取りも軽い様子で下に降りて来た。
くいなと呼ばれた娘の顔を見て、ぱっと表情を輝かせる。
(・・・何? ゾロ、何でその女の子の前でそんな表情するの・・・?)
「ったく、用件があるなら自分で来いってのよ。私を使いっ走りにするなんていい度胸だわ」
「ああ、悪ィ。で、例の物持って来てくれたのか?」
「しかも、労いの言葉より先に物を要求するなんて厚かましいにも程があるわよね」
「ああ、悪かったよ、感謝してるよ。だからさっさと寄越せよ」
早く渡せと言わんばかりにゾロの手がくいなの持っていた包みへと伸ばされる。
くいなは肩を竦め、苦笑しながら無造作にその包みをゾロの掌へと乗せた。
「はい、大事に使ってよ。私にとっても大事な物なんだからね!?」
「おぅ、判ってる。だから、――て、ナミか。丁度いいから来いよ、紹介してやっから。こいつ、ルフィの飼い主でくいなってんだ。親父同士が兄弟だから、一応従兄弟になるんだな」
「へえ、可愛い。まだ仔猫なんだ〜。いいなぁ、もうルフィくらいになると遊んでくれないもんな〜」
くいなはナミに向かっておいでおいでと手を差し伸べたが、ナミはぱっと身を翻して庭へと飛び出した。
「へっへ〜、俺以外はいやだとさ♪」
「う〜ん、ガード固いなぁ。でも、確かに美人ね。うん、ウチのルフィのお嫁さんに欲しいな」
「駄目だね。ナミは誰にもやんねー」
そんなやり取りが笑い声を伴って聞こえる。
ナミは聞きたくなかった。見たくもなかった。
柔らかく生い茂るユキヤナギの下へと逃げ込むが、そんなこと程度で声は遠くならなかった。
(ゾロ、何でその娘とそんな楽しそうにしてるの? 同じ人間の、その娘が好きなの? プレゼントまで届けてもらって?)
しかも、あろうことかふたりはそのまま居間へと移動し、たった今届けられた包みを開けてその中身を確認している。
掌に収まってしまいそうな鈍色の物体を手に、ゾロはいろいろとくいなに質問をぶつけていた。
それに応えるようにくいなは明るく微笑み、楽しそうに身振り手振りで解説していた。
何よりショックだったのはくいなの楽しげな様子ではなく、ゾロの、ナミに向けるのと同じ表情を見てしまったからだった。
ゾロがナミを見る時、その小さな存在が愛しくて堪らないといった一種親バカ丸出しの顔を覗かせる。
黙って立っていれば強面のクールな青年なのに、そんな表情を知っているナミは、逆に自分だけが垣間見られる彼の一面にくすぐったさを覚えるほどだ。
なのに・・・。
(何で、彼女の前で同じ顔するの・・・?)
それは、くいなが好きだからなのだろうか。
(いやだよ、ゾロ。私の目の前で、別の女の子を見つめて、そんないい笑顔を見せないで・・・!)
あれはナミのための笑顔だ。
ナミだけが見ていい、とっておきの笑顔なのだ。
そんじょそこらの相手に見せていいものではない――そう思っているのは、ここで小さな胸を痛めるナミだけだったのか。
(どうしてもその娘が好きなら、せめてこの家に連れて来ないで。私の目に触れさせないで・・・)
ナミは滲んだ視界を振り切るように、目の前にあった楡の木にしがみついた。何も考えず、本能のままよじ登る。
梢を流れる風が囁く。
所詮、種族の違う恋に未来などないのだと。
だがその反面、その刹那に向けられる想いは本物だろうと・・・。
(判んないよ、そんなこと。せっかく一緒に暮らせるようになったのに、ここにいる方が苦しいなんて酷いよ・・・)
浮かんだ涙をごまかすように目を閉じ、そのまま太い枝の上に横になって前足に顔を伏せる。
楽しげな会話は、ナミの心に暗雲をもたらすばかりだった。
どのくらいそうしていただろう。
ふと気づくと、いつの間にかくいなの気配はなくなっていた。
風もいつしか夕方の空気を帯び、どこかで微かにヒグラシが鳴いているのが聞こえる。
(ああ・・・少し眠っちゃったのね・・・)
涙ぐんでいろいろ考え事をしていたせいか頭が重い。
ふと下を見下ろし、良く落ちなかったものだとちょっと背筋が寒くなった。
(さて・・・下りられるかしら・・・)
登る時は夢中だったが、いざ正気に戻って下を覗き見れば、仔猫のナミには少々きつい高さにいたことを改めて思い知らされる。
「おーい、ナミ、どこだー? 隠れてねぇで出て来い、人見知りしなくたって、くいなはとっくに帰ったぞー」
(人見知りじゃないわよ! 朴念仁!!)
まったく乙女心の判らない男だ。
一度豆腐の角に頭をぶつけてみればいいのだが、生憎ナミの手では豆腐を投げつけることもできない。
ゾロは庭をざっと見回し。ふとナミのお気に入りの楡の木の近くに来た。
何気なく視線が上がり、太い枝にしがみついていたナミと視線がぶつかる。
「ああ、こんなとこにいやがった。いるんなら返事くらいしろよな。心配するだろ?」
ここに来てまだ半月だし、仔猫のナミは未だ遠出をしたことがない。
不案内な場所で仔猫がそうすることがどんなに危険か、ナミとてそのくらいは充分判っている。
テリトリーのある猫社会でそんなことをすれば、最悪各所で追い飛ばされて家に帰れなくなる恐れがあるのだ。
それゆえに、家から遠くは離れられない。
(だから、見せつけられても我慢するしかないの・・・?)
木の下から呼ぶゾロを見下ろし、ナミは切なくて堪らなかった。
「ほら・・・受け止めてやっから、来いよ」
Tシャツの裾を広げ、片方の手でひらひらと手招きをする。
あの、頻繁にナミへ向けられるとっておきの笑顔で。
(何で今、その表情を見せるのよ・・・!)
ずるい、と思った。今そんな顔を見せられてしまったら、すべてを水に流して許すしかないではないか。
(ゾロ・・・!)
ナミはするりと重心を移動し、両手の添えられたTシャツ目掛けてジャンプした。
そして、抱き止められる――否、しがみつく。ゾロの、翡翠色の頭に。
「いいい、いて―――――ッ! ナミ、こら何しやがるッ!?」
(げほげほ! それはこっちの台詞よッ!)
ナミは落ちまいとしっかりとゾロの頭に爪を立てていた。またもゾロの頭は流血の惨事となった。
一方ナミも見事に腹から落ちていたので、思い切り腹部にボディブローを喰らったのと同じことになっていた。
痛み分けということで、ナミは今回の件は不問にすることにした。
「まったく、庭先で何やってんだか・・・」
文句を言いながらも獣医の母親に手当てをしてもらい、ゾロは渋面で頭を撫でた。消毒液が沁みたらしい。
居間のソファにちょこんと座るナミと目が合うと、ゾロは思い出したようにふと顔を近づけた。
「あ〜、何だ。お前今日はやけに埃臭いな。いつもは殆ど感じねぇのに」
それもそのはずで、ナミは今日の午後殆ど毛繕いしていない。
いつもならゾロへの恋心のなせる業で、少しでも綺麗な自分を見せたいがために必死で身繕いしているのだ。
なのに、今日は伏兵とも言うべきくいなの登場にショックを受け、とてもそこまで気が回らなかった。
恋する乙女としては、それも仕方のない事情と言うべきだろう。
「しゃーねぇな。待ってろ、風呂入れてやっから。ようやくこないだ買ったシャンプーが試せんぞ?」
「みゅ?(え?)」
ゾロは罪のないにっこりとした笑顔を見せた。
ナミの背中に、一筋のいやな汗が流れた。
――5分後。
「ふぎゃ―――! みぎゃ――――ッ!!(やめてー! ゾロのエッチ――ッ!)」
「おら、暴れんじゃねぇよ。泡が目に入んだろーが。ほれ、溺れっぞ?」
「ふみぃぃぃッ! ぎゃお〜〜〜ん!!(助けてェェェッ! おとーさん、おかーさ〜〜〜ん!!)」
ナミは悲痛な雄叫びを上げたが、両親にはものの見事に無視された。
その後ドライヤーの柔らかな温風で身体を乾かされる頃には、ナミはぐったり脱力しきっていた。
(ゾロのバカ。何てトコまで洗ってくれんのよ。もう、お嫁に行けない・・・)
羞恥心と疲労にクッションへと突っ伏し、ナミは半ばお休みモードに入っていた。
丁寧にブラッシングされた毛並みは一層艶やかになり、ゾロは満足そうにナミの背中を撫でた。
微かに柑橘系の残り香が漂い、ナミはいつしかふんわりした眠気に包まれつつあった。
(今日はいろんなことがあったから疲れた・・・)
「――ナミ? しゃあねぇなぁ。第1号はコレでもいいか」
どこか不穏当な発言が聞こえたような気がしたが、ナミはもう目を開けるのも億劫なほど眠かった。
眠りの薄闇に落ちる瞬間、ナミの視界のほんの片隅で何かが光ったような気がしたが、それが何であるのかは判らなかった・・・。
それから暫くの間、ゾロは家にいる時は腕を背に回しながらナミの様子を窺うようになった。
たまに気づくと、あのくいなから渡されたのだろう鈍色の物を持ち歩いている。
光ったり光らなかったり、その様相は様々だ。ナミは不審に思ったが、実害はないので無視することにした。
それ以前に、ゾロが自分に危害を加えることなどあり得ないが。
8月に入ったある日、ゾロのところに友人がひとり訪ねて来た。
長い鼻に黒いトレッド・ヘア、ぽってりと厚い唇が妙に愛嬌のある男である。
「よーうゾロ、こないだ頼まれてたヤツできたぞ」
「おっ、さすが仕事が早ェな。で、ブツの具合はどうだ?」
(ブツ? 具合?)
楡の木の下から様子を窺っていたナミは、ふと視線を上げて居間のふたりを眺めていた。
何を見ているのか、長鼻の友人が持って来た封筒からハガキサイズの物を取り出し、感嘆の眼差しで見つめている。
「おー、すっげぇ! キレーじゃん!」
「お前激写の腕が今イチなんだもんよ。まぁ、初めて触った素人さんじゃ仕方ねぇけどな。そこで俺の登場ってわけだ。ブレたりピンボケたりしたヤツは一旦パソに取り込んで、修正掛けてついでにソフトフォーカスなんぞもやってみた。ん、これはサービスだな! で、この珠玉の傑作が生み出されたってわけさ」
「おぅ、ホント凄ェよな、ウソップは。俺じゃこうはいかねぇ」
「何だよ、素直過ぎて気持ち悪ィじゃんか。ま、これは親父の職業柄と、俺様の生来の器用さのコラボレーションってとこだな」
長い鼻を更に高くして、ウソップはゾロの前で自慢げに胸を反らした。
ゾロは既に目の前の物に夢中で、まったくウソップの話を聞いてはいなかったのだが。
相好を崩し、とても人様に見せられたものではないレベルの笑み崩れっぷりに、ナミは肩を竦めて溜息をついた。
(なぁにを見てそんなにニヤついてんだか。やらしい雑誌の切り抜きでも持って来てもらったのかしらね)
ナミの視線は氷のように冷たい。
やがてウソップが帰った後も、ゾロはにやついたままそこから視線を放さなかった。
「みい、みゃお〜う?(そんなに夢中になって、一体何を見てるの?)」
「んん? おぅナミか、ほれほれ、こっち来て見てみろよ♪」
ゾロはナミが縁側から上がるのを見つけると、にんまりとした笑みのまま手招きをした。
胡坐をかいた膝の上は何かで散らかっていたので、それを見下ろせるようにと肩へと上がらせる。
「ほれ、いい出来具合だろ?」
ナミの目の前に改めて出された物――それは、通常の写真より一回り大きな2Lサイズの写真の数々だった。
そこに映っていたのは、どれもこれもオレンジ色の体毛に包まれた小さな仔猫――ナミ以外の何者でもなかった。
(私の写真・・・? どうして、こんなのが・・・)
訝るようにゾロの顔を覗き込む。
ゾロはにっと歯を剥き、軽く片方の眉を跳ね上げて自慢げに言った。
「苦労したんだぜぇ? お前ここんとこ妙に不機嫌だったろ。だからなかなかいいショットが撮れなくてよー。そうでなくても、くいなから借りたデジ・カメの使い勝手が悪くてな。やっぱ古いタイプの、しかも借り物は駄目だわ。ま、今度の俺の誕生日にはデジ・カメとプリンター買わせる予定だけどな」
(カメラ? あの時彼女から渡されたのってプレゼントじゃなく、ただ借りただけのカメラだったの?)
写真とゾロの横顔を見比べるナミの髭にくすぐられ、ゾロは首を竦めて笑った。
「けど、ホンットあいつ拝み倒してデジ・カメ貸して貰えるって時は嬉しかったんだぜ? これでようやく、ナミの姿を撮りまくれるってな。そのうちパソも手に入れて、ウソップにでも習って修行するぜ。あいつんち写真屋だから、これなんか本気で綺麗だろ? 元は俺が撮った物だなんて思えねぇよなー♪」
(・・・・・)
ナミは一気に全身から力が抜け、ずるずるとゾロの背中を滑り落ちてしまった。
(・・・じゃあ、何? くいなって女の子が来た時あんなに嬉しそうだったのは、もしかして私の写真が撮れることが嬉しいからだったの? しかも、こんな――写真好きの友達に頼んで、こんな綺麗に仕上げてもらうよう頼むほど・・・?)
膝や床に広げられた写真は、どれもなかなかいい味を出している物ばかりだった。
いくらセミ・プロが仕上げた物とはいえ、元は素人が撮った物だ。プロには到底及ばない。
それでも、そこから隠し切れず滲み出て来る愛情のエッセンスには目を瞠るものがあっただろう。
そう、ゾロの撮ったナミの写真には、思わず惹きつけられる“何か”があった。
(もう、ゾロってば・・・)
ナミは苦笑から深くも長い溜息を漏らし、何気に両手をゾロの背中へと伸ばした。
(紛らわしいのよッッ!!!)
「い・・・いでででででッ! ナミ、ナミ、爪、爪がッッ!! ぐわあああああッッ!!!」
ナミは怒り心頭にゾロの背中を掻きむしり、その晩の風呂で悲鳴を上げさせることに大成功した。
そうしてまた数日後。
ウソップはゾロに頼まれた第2弾を手に、ロロノア動物診療所を訪れた。
ゾロは丁度庭の水撒きをやっていてびしょ濡れになり、着替えにシャツを脱いでいたところだった。
「おう、毎度悪ィな。勝手に座っててくれ」
「ああ、気にすんな――って、ゾロ、お前その背中・・・?」
「あ? ああ、これか? これは――」
もちろんそれは数日前にナミが力一杯掻きむしったもので、鋭い爪の暴挙は数日たった今でもその痕跡を日に焼けた背中に止めている。
それを見た瞬間、ウソップは一気に真っ赤になってゾロの言葉を押し止めた。
「いや! いいんだ、それ以上言わなくて! おおお、俺は見なかったことにするから!」
「・・・何でだ? 別にこれは――」
「いいんだ、言わなくて! 多感な青春期の夏に、多少アバンギャルドなアバンチュールを経験したって誰も止められやしないんだ! だから・・・『俺は何も見なかった!!』」
「ま、待てコラ! 誤解したまま帰んな! 変なこと周りに言うつもりじゃねぇだろーなッ!?」
さすがにそこまであからさまに言われれば、多少鈍いゾロにもウソップの言わんとしていることくらい理解できた。
ウソップの見解――つまりはゾロが、多感な青春期に『ひと夏の経験』をしてしまったということで。
「こらー! 待て、戻れ! でっけぇ誤解したまま行くんじゃねぇッ!!」
ゾロは真っ赤になって吼えていたが、既にトレッド・ヘアの背中はとうに見えなくなっている。
(ひと夏の経験ねえ・・・)
ナミはくすりと頬を緩める。
ちょこんと縁側の端に座ったオレンジ色の尻尾が無造作に揺れている。
ご機嫌さを表すように、先だけがゆらゆらと。
(ある意味、そうかもね)
ヘイゼルがかった金色の瞳が細められ、ナミは改めてこの瞬間の幸せを思った。
その様子を、楡の木を擦り抜ける風が温かく微笑みながら眺めていた。
<FIN>
《筆者あとがき》
可愛いお話――ちょっと違う。
切ないお話――これも、ちょっと違う。
意味不明なお話――これに尽きるかもしれない・・・。
・・・泣いてもいいですか?(またも遁走)
←前編へ
(2004.06.14)Copyright(C)真牙,All rights reserved.
<管理人のつぶやき>
はいはいはい♪真牙さんの『Pussy Cat’s Monologue』の続編・猫バージョンでした〜。
ゾロの「猫ナミ溺愛記」という別名を付けてもいいでしょうか(笑)。
ナミはまだ子猫で若い分、まっすぐな愛をゾロへと向けます。しかし、そこには種族の壁が。
猫ルフィにも指摘されるものの、ゾロを信じてその不安にフタをします。
しかーし、従姉妹のくいなが登場。人間の女の子と仲良くするゾロという現実を目の当たりにした猫ナミは激しく動揺。普段は上らない高さまで木を上ってしまうくらいに。
でも実は、ゾロは愛猫をいかに美しく写真に収めるかに苦心してた・・・ああ、こちらが恥ずかしくなるほどの溺愛っぷりでした!!(笑)
さてさて、「うーん、やはり人間バージョンも気になるよ・・・・」という方!
ここから飛んでみる?→●
真牙さんは現在サイトをお持ちです。こちら→Baby Factory様